「悪人」を観て

宮川俊朗
映画「悪人」はおもしろかった。日本アカデミー賞を総なめにしている。近頃、余り映画を観ないのもあって、衝撃がすごかった。R12に指定し、子供には見せないように制限しているのがわかる。大人が観ても怖い。
 映画は せりふ、演技、音楽、ストーリーなど多くの要素が、巧みに組み合わされ、観客に迫る。総合的かつ立体的な動きが、説得力を伴いダイナミックに展開する。
理不尽な殺人を犯した青年。彼女は、彼の心を理解し、逃走の車に乗ってついてゆく。若き女性の美しくも短い恋物語である。
青年はメールで知り合った女性にやっと会えたのに、眼前で裏切られ怒りを爆発させる。相手はお金持ちの息子で、軽い遊びの付き合いを繰り返す。主人公がお目当ての女性は、その金持ちの息子にいいように遊ばれ、夜、山の中に捨てられる。福岡県と佐賀県の県境にある三瀬峠での事件だ。
青年は、車から投げ捨てられた彼女を救い、自分の車に乗せてあげようと試みるが、またもや裏切られ、かっとなって首を絞めてしまう。偶然の殺人だが、起こるべくして起こった悲しい犯罪でもある。
犯人は青年だが、本当に悪人なのか。長崎の漁村での暮らしは、貧しく辛い。乏しい中で、やっと得た仕事は激務で、いわゆる3Kそのものだ。ときめきの恋を求め、世間並みの幸せを求め、メールを送り続けついには殺人を犯してしまう。
なぜかついて来る彼女も、質素な暮らしで、男を知らないままに衣服の専門店で働いている。制服の姿が美しくりりしい。ひたむきに接客の仕事をしているのがよくわかる。
彼女も恋をしたい。「いっしょに逃げて」。新婚旅行よりも短い、つかの間の恋。どちらからも求める激しいラブシーン。まじめな制服姿から愛欲への変身は、身も心もまっしぐらだ。
「灯台へドライブに行こう」と送ったメール文の通り、大きな海の前に建つ灯台へと車を走らせる。波がリズミカルに浜辺へと打ち寄せる。数夜をともに明かし、青年は捕まる。まきを燃やして暖を取り、部屋に置いてある毛布にくるまる。
捜索隊が灯すかがり火が、揺れて美しく哀しい。人はみんな、太古の昔からの道具や知恵を持って生きて来た。しかし産業構造の変化により、地方はすたれ、ここ長崎でも頼りとする漁業の水揚げは落ちる。青年が勤める土木解体作業では、誰も住まなくなった海辺の古い家を、鉄の機械でなぎ倒す。
古い家を撮るカメラアイは、青年の辛く切ない心象風景である。作業員は年配者ばかりで、若者は主人公一人だけだ。
都会だけが繁栄する。人ばかりか権力に冨、情報、おもしろい遊びなど何もかも素敵なものが、大都会に集中する。剥ぎ取られた地方は、老いてさびれるばかりだ。

「悪人」の作者、吉田修一が、映画のシナリオづくりに参加する。的確なせりふは、時におしゃれで、ユーモアに溢れている。もっとも厳しい筋立てに呼応するかのように、大半のせりふは、深刻でとげとげしい。脚本は、全体に目配りが行き届き、前後左右、隙なく精緻に創られている。
義母は、捨てられた青年を拾って育てる。この義母と殺された娘の父はほぼ同じ年で、まじめに働いてきながら、理解しがたい悲しみに包まれる。肉親のサドンデスという極限状態にあり、懸命に生き、これでもかこれでもかという過酷な挫折を重ねる。周りの者からは、どうすることもできない。本人たちも状況をまっすぐには理解できぬまま、身内の「悪人」のために全力を尽くす。服装さえ変えれば、現代の戦争映画である。
彼女は、青年を何とか支えようと能面のように表情を変えずに行動する。微妙な心の動きを、これまた能面のようにリアルかつ芸術的に表現する。大げさな身振り、手振りを余りせず、顔と声だけに絞って表現することで、大きな感動を呼ぶ。映画はよくある話だけに、日本の現状、人間の善と悪、美と醜を描き、告発している。
隣席の女性が、ハンカチで目をぬぐっている。私は見て見ぬ振りをして、映画に集中した。

見かけ
サド公爵は、SMの元祖として知られている。サドが行き着いた考えは、虐待性の強いサディズムと称せられ、多くの人の興味と関心の的である。サド公爵その人より、人間性における虐待性、自分自身の奥底に潜む虐待への恐れと行動への憧れ、可能性である。やってみると意外と簡単、誰でもできる。そもそも万人に共通の心理、競争する者には必須の要件ではないかとさえ、好意的に考えてしまう。逆のMも、同様に神秘性を帯びながら、既に自分たちの日常に展開している。
「プラスをSとすれば、マイナスはMとなる。」この簡単な図式は、上下関係、強弱の関係、力関係から発展させれば、友人、夫婦においても普通に起こりうるものだ。いや二人以上の社会的な立場においては、いずれかがSあるいはMになる。過剰にならないだけに、そこまで表現しなくても良かろうとも思う。
特に1対1の勝負においては、礼節をもって美しく行われるのは稀だ。意識するしないにかかわらず、勝つ時は激しく、負けるときも激しくなる。
「ゆっくり思いやりながら、勝つ。敵にも花を。」は余程、力量が離れていない以外は
難しい。いや優しく勝つことこそ、負ける側には最大の屈辱である。まして負けてもらうなど、いくら称賛の声が上がっても耐え難く、反発を招きかねない。負けてあげるとは、戦う前から白黒つけているのに等しく、「何とか勝ちたい、一矢を報いたい」と願う劣勢の者には、戦う場を失うことになる。勝負がなくなり、勝利という言葉だけが届く。
きれいなM状態に追い込まれる。

サド公爵は、このあたりまで細々と綴っている。もはや変態とか異常の世界ではなく、人間性の探求、考察の哲学者である。
「フランスで最高の詩人の一人」と称せられるのは、極限を探求し、旅したゆえの贈り言葉である。プラス、マイナスのSとMが、諸刃の白いナイフのように光る。

「歯車」
芥川龍之介の「歯車」も同じである。精神医学者の間では、「歯車」は異常心理のテキストとして事例研究書になっている。その有効的な側面はある。
しかし「歯車」は、芥川龍之介の最晩年の名作であり、末期の思いを詩的に表現している。あるいはわざわざ詩的に表現したのではなく、あと余命いくばくもない人生への別れ歌となっている。しかも肉体的な病気ではなく、自殺という手段に訴える末期だ。自殺しなければ、あと1年や2年は生きられる。追い込まれたとはいえ、この覚悟を綴ったのが、「歯車」である。心を言葉で表す。詩人にならざるを得ない。
人は時、場所、目的のTPOがぎりぎりの極限状態に置かれたら、詩人になる。誰にも頼ることができず、たった一人になる。万葉集が老若男女のあらゆる人たちの歌を取り上げているのは、詩の魂が万人に共通のものであり、個別に輝くことを物語っている。
極限は、人を詩人にする。詩人になり、思い感じれば、世の中がわかり、自然や社会への感謝が芽生える。原点に立ち帰り、裸一貫から出直しを図る。

芥川龍之介は、自殺というテーマで、実行か否かを密やかに問い続けた。もっとおおらかな気持ちで友と語らえば、危機は乗り越えたかもしれない。それはあくまで結果論であり、芥川の仔細を知らぬ第三者の勝手な推察である。
「どうせ死なねばならない」という悲しい運命に対し、自殺という人間だけに許された手段に訴えた。辛くも前衛的な考えは、実行することで結論を得る。しかし安楽に家族と生きていきたいという思いは、どこまでも残る。この葛藤は、病的になりつつも、詩的になる。「歯車」を読んで救われた人、感謝する人、地獄を必死で回避しようとする人は多い。多くを語らないだけだ。
「歯車」は恐ろしくも神秘的な行程の詩文となる。読めば神経が尖ってくる。

一目
百聞は一見に如かずというのは、本当だ。高齢者に関する記事やニュースを、新聞や
テレビで時々観る。街を歩いていても、高齢の男女を目にするのが増える。街歩きを楽しまれる方は、元気で興味や好奇心が旺盛に思われる。
 先日、ある男性が、写真を借りに尋ねてみえた。私たちが古い写真の蒐集をしているのを聞かれたそうだ。二日に一日は、街に出ていると言われるだけあって、背筋は伸び、かくしゃくとしてある。年齢を尋ねなければ、とても八十五歳には見えない。
「妻とよく利用していたK駅の写真があれば、お借りしたいのです。」
と丁寧な語りである。
「お捜しの写真が、見つかりましたらご連絡しましょう。」
と返事をすると、
「ありがとう。待っていますよ。この辺りには、二日に一日は出てきています。待ち歩きは、楽しく足腰を鍛えることになります。
 それにねえ、家にいても詰まらないですよ。4LDKのマンションに、私一人です。妻が昨年、なくなってから、息子夫婦が週に一度、掃除をしに来てくれます。でもマンションにいても、寂しいですよ。」
とゆっくりと言葉を噛み締めるように話した。
「御元気そうに見えますよ。」
と私が励ましの言葉を挟んだ。
「元気ですが、寂しいんですよ。本当に寂しいのですよ。」
と語気を強められた。
 寂しいという暗い言葉と元気な発音が、裏表で不思議な気持ちがした。
 高年齢者の問題が、日々マスコミを賑わわせているが、直接にお会いすると胸にずきんと来る。とりわけ長生きは、万人が望むところであるが、目指すゴールのその先は、あいまいなものが待っているにちがいない。暗夜行路。それ以上に地獄が待っているか。
「年寄りの気持ちは、なってみないとわからないよ」
と父から言われたことを、今になって思い出す。
大事なものを一つずつ失っても、立て直し、頑張って生きていく。家族、友達、趣味、遊び、希望が要る。大いなる思想が、求められる。じっくり思想を育てるのが、大切だ。
どうなるかやってみよう。自分にとって、未知の経験となる。
孤独で元気な方の話を聞きながら、将来を考えた。

似た話
S先輩と久しぶりに街でばったりあった。地味だが、おしゃれだ。
「お元気そうですね。」
と声をかけると
「そう、言われるような年ではないよ。」
と、にやりとされた。
 先輩は、毒舌で知られている。毒を一つもって、返事をされた。
 言葉は難しいなと改めて感じた。「先輩だってもっと優しい返し方があるだろうに」と批判の感情がしばらくわいた。

虻蜂
ある男Tが仕えている上役Yがいる。筋金は通っているが、言葉使いは荒い時がある。感情がもろに出るためで、少年の心を持ち、却って純情とも言える。しかしTにしたら、Yの激情をもろに受け止めなければならない。今までもYの部下は、たくさんいたが、感情の起伏の大きさに耐え切れず、別の職場に変わるか、本当に辞めてしまった者も数少なくない。
Tは、そのあたりを心配されながらも、Yのもとで仕事をするようになった。
「だめなら辞めてもらえば、いいじゃないか。」
というような雰囲気がないわけではない。
 Tも弱い立場だ。だから余計に厳しいYに忠実であったのだが、同じ職場にNがいる。片思いのNに心を転ずることで、何とか仕事を続けてきた。年下でかわいらしい。自分が妻帯者だから、片思い自体に後ろめたさがないわけではないが、心は自由だ。
 上司のYが、Nにきやすく声をかける。Tも他の女性にはできるのだが、Nだけにはどうしてもできない。思いを告げたくなるし、職場では難しい。このぎこちなさが、却って、職場で感付かれている懸念もある。
 上司のYは、可愛いいNに「飲みにいこうか」と声をかけ、
一つ返事で「いつでも良いです。お願いします。」
と、はっきりとした声で、仕事中のTにもよく聞こえる。
 フットワークが良い。
「先輩のSさんも一緒に連れてきてよいですか。」
「ああ良いよ。」
 両手に花。Nだって一人は、きついし、見られたら何と言われるかわからない。リスク管理だ。
 その日のYは、ルンルン気分で仕事がはかどる。おかげでTに強く当たることもないが、夜は宴会で大いに盛り上がるだろうと思うと憂鬱になる。
 同伴を認められたSが、気を利かして
「一緒にみえませんか。」
とTを誘いに来る。
 Sは感受性が強く、Tの気持ちがわかっているのだろう。
「いや忙しいから、遠慮しておくよ。」
 上司のにんまりしている顔が、横に見える。
 Nはやっぱり可愛い。Tは、いつまでも心で思い続けるばかりだろうか。
「飲みに行こうか」とこっそり誘っても、ばっさり断られたらと思うと躊躇する。
 だったら、今夜ついていけばよいのに。先輩のSが渡りに船と、気を配っているではないか。
 虻蜂取らず。NかSではない。Nだけがお目当てなのだ。
 それより上司のYとNがイチャイチャしている。虻と蜂が一緒になって戯れているような気がしてならない。
 Tは眠れない夜に、一人、濃いウィスキーを飲みながら次の一手を考えた。
 
コミュニケーション
 医者の役割は重要だ。病気の経験があれば、その役割の重大さは身に沁みてわかる。命の鍵を握っていると言っても、過言ではない。
 患者はおずおずと病名や病状、今後の見通しについて尋ねる。痛みや疲れ方、だるさは、本人が感じるのだから、良し悪しは自分が一番知っている。
 「たいしたことはありません。養生すれば、大丈夫です。」
と御医者さんからはっきりと言ってほしい。
 医者は、嘘は言えない。たとえ患者本人には、「大丈夫」と言いながらも、家族には真実を告げる。家族から事実が患者に漏れそうな時は、第三者に告げるだろうし、適当な人、つまり理解しながら患者を見守ってくれる人が、見当たらない場合は、カルテにそっと記す。
 医者は本人に病気と病名を告げる。患者はうつろげに、目を見開いて聞く。
 今後が大事だ。生きていけるのか。回復の可能性は。そしてリスクはどの程度あるのか?
 リスクの程度は、今までの統計、事例と患者の年齢、体力、気力などから総合的に判断して決める。
「治るか、否か」
「あと何年ぐらい、寿命はあるのか」
 患者とその家族が、固唾を飲んで聞く修羅場において、医者はあっさりと病状を告げる。医者は多くの患者を抱えて、日々忙しいのだ。医者だって疲れている。
 生存率50%の時に、どう解釈し、告げるのか。
「コップに半分の水が入っている。どのように表現するか。」
もう半分しかない。まだ半分はある。
数字と言葉を上手に使って表現する。いや楽観主義か悲観主義かだ。
それは医者の判断であり、同時に患者のとらえかたにもなる。客観をベースにした主観。たった一杯の水で蘇る人がいる。多量の点滴を投入してもらっても、へこたれる人がいる。
わずか一言の励まし、助言、希望そして笑顔と優しさで人は元気になる。
天と地に向けた賭け、勝負である。コミュニケーションは、命がけであり、命を救う。




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