「アーティスト」を観て

宮川俊朗


 「アーティスト」を観て
          宮川俊朗
 上映開始から一ケ月遅れで観に行く。「アーティスト」はアカデミー賞を取りすこぶる好評だが、最終の上映が18時からであり、残業もからんで時間的にも観に行くことができない。
 落ち着いて観に行く頃は、ピークが過ぎている。やっと午後半休を取る。
と案内係からスピーカーで言われる。
「通路に近い方でお願いします。」
とチケットを買って入ると、狭い劇場に年配者がいっぱいだ。初々しい女性が一人で座っているのが、逆に目立つ。
 フランス人にして、英語で撮る。「英語の字幕で」と言った方が的確だ。
「ハリウッドで、そして英語で映画を作る方が、客観的で世界に広がりを持たせられる。フランス語でパリをロケ地にすれば、限定される。」
 どちらにするか、随分悩まれたのであろう。作戦は成功した。
 何しろ構想10年で、シナリオだけでも何通りも書いたにちがいない。「制作費を工面するだけで大変だった」ともらしている。海のものとも山のものともわからない作品に銀行や親戚、友達が貸そうはずもない。貸せば倍になるか、返ってこないかで賭けである。監督はまだ40代前半だから、構想を抱いたのは30歳初めとするなら、構想に試行錯誤で悩むというより、金策で苦労したのが本音だろう。
 しかし苦節の思いは、「アーティスト」の中でふんだんに紹介され、開花している。「アーティスト」は自分史であり、告白録でもある。
 主人公はサイレント映画でのスターであり、一世を風靡する。しかし音が出るトーキーが登場してからは、駄目になる。
「俺は昔のスターで、お客さまはその声を聞きたがりはしないよ。」
とトーキー映画に出演することを頑なに拒む。
 俳優は顔と演技で、お客さまを楽しませる。これが主人公の哲学であり、演技のコンセプトで、アーティストたるゆえんだ。サイレント映画全盛時代の話だ。
 新進気鋭の女優志望が現れる。ダンスでテストし、脇役の採用を監督に働きかけてやる。新人は頑張り、かすかなチャンスをものにする。女優が大スターや監督に取り込もうとするのは、古今東西に共通する技法である。女流作家(志望)が、大作家に自分の作品を見てもらう際、「筆を入れてもらう。」という隠語を使う。業界独特の表現で、筆による添削という意味と、文字通り体の中に「筆」を入れてもらい、何もかも教えてもらうという意味がある。「女の武器」はやり手ほど、早くから使う。早くからというか、若い時にしか武器は価値を持たない。
 新人はスターの家に忍び込み、演技の練習を重ねる。男のタキシードに身を入れ、抱擁のシーンを演じてみる。自分の手ながら、右手はスターの首を巻き、左手は腰から胸に動かされる。左手が角張り、ごつごつした感じで女の背から下半身を撫で回す。パントマイムであり、二人羽織であり、男女一体となる艶かしいシーンである。
 そこをスターは見ている。一生懸命さと「なかなかやるね」というひたむきさ、そして恋が芽生える。女が武器を使っているのはミエミエだが、主人公が彼女を本当に好きになってしまったのが、泣かせるところだ。女が上昇階段を上っていっても、男を見捨てない。
「女優がスターになるには、1箇所だけ目立つところがなければいけない。」
と頬に黒子を1点つけてやる。
 その黒子を女は、売れっ子のスターになっても忘れない。

 男が最後のサイレント映画に出、女がトーキーの目玉作品に出ようとする時、階段ですれ違う。みんな上へ上へと階段を上ろうとする時、往年のスターだけはゆっくり降りてゆく。
 最後のサイレント映画は、男も女も観に行く。観客はパラパラで、男は呆然と見詰め、女は若い彼氏と2階の特別席から観ている。男に知られないように2階の影からではあるが、見下ろしている。
 監督は構想10年の間にこのシーンを随分と練り直したであろう。この映画の一つの象徴であり、白と黒、明暗がくっきり分かれる修羅場である。
 女はグングンとトップの座に上り詰め、男は失業し生活が困窮していく。
 お抱えの運転士に
「お前に給料をいつから払っていないのか。」
と尋ねる。
「1年前からです。」
と運転士は淡々と答える。笑う場面である。
運転士だけが、往年のスターを見捨てない。いくところもないからでもある。 
「お前を首にする。車をやるから今日で首だ。」
 運転士はなかなか出て行かず、玄関前で夜を過ごす。サイレント映画のスターは、2階からじっと見ている。
 翌日、車はなく、主人はほっとする。哀愁が漂う。体ごと哀愁だ。心が泣いている。
 主人はたった一人、酒に溺れる。大事なものを質に入れて、酒を買う。
「これだけの金しか出せませんね。」
と宝物を質屋の主人から冷たく言われる。
 なけなしの金で酒を飲む。
 大事なトロフィーを競売にかける。何もかもない。この競売品をすべて、女が買っているのが、後でわかる。観客はみんなハンカチを持って泣いている。シナリオが精緻で、仕掛けが素晴らしい。これでもか、これでもかと心に迫る。前のせりふや演技が生きてくる。
 愛犬が大活躍だ。フィルムを焼いて火事を出し、主人公が煙に巻き込まれるのを、犬が警察に知らせる。ワンワンと吠えまくり、突然バタンと倒れる演技を見せる。犬はサイレント映画のスターだ。人間の言葉を喋らないだけで、心は通じ体を張って訴え、演じることができる。
「犬も主人公」いや「犬こそ主人公そしてアーティスト」
 このアイディアが、映画を活気づけ、色を添える。もし愛犬が登場しなければ、「アーティスト」は男と女の単なるメロドラマに堕しているだろう。
 現代の映画が、3Dやコンピュータ多用などに向かう中、「映画は何か」と原点を探り、本質を極め直そうと試みる。アカデミー賞への挑戦状であり、映画復権へのメッセージである。
 女は年上の男をトーキー映画へ誘う。
「この人を出さなければ、役を降りるわ。」
と監督を脅す。

 それでも男は映画に出ようとしない。できない。
 家具の上から箱を取り出す。なかなか箱に手が届かない。
 観客は「何かな」とハラハラして観ている。ゆっくりした時間だからだ。
 ピストルを取り出し、口に突っ込む。
 女は間に合い、説得する。男はどうしても拒む。
「良いアイディアがあります。」
 タップダンスで二人は踊る。男が女に教えたダンスだ。喋らなくとも靴が語る。リズムが素晴らしい。
 難しい顔をした監督が、葉巻を曇らせながら
「パーフェクトだ。」
と誉める。
 男と女の顔がゆるむ。認められたのだ。男はサイレントを貫いて演じられた。トーキー映画の1シーンだ。
 ここでハッピーエンドにしないところが、小憎らしい。
「もう一回」
と監督は意地にかけて、もう一度の演技を命じる。 
 もう男と女を映さない。
 男の顔はゆがんでいるはずだ。
「このせりふを入れて」
と注文がありそうだが、ここで映画は終わり、出演俳優の一覧表が銀幕に流れる。
 男がせりふを拒んだのか、一皮むけたのかは誰も知らない。答えはいずれかだが、お客さまの想像力に任せる、ゆだねる。
 このサイレントが、極上のサービスとなる。サイレント+トーキー映画の醍醐味であり、真骨頂だ。
                             
 トルストイの民話
 Aは忠実な社員であったが、新しい上司のBからきつく指導されることになった。BはAの能力とやる気を高く買っていた。Aへの期待が高い上だけに、鍛えて更に上を目指して欲しいという親心があった。
 的確かつスピーディに仕事をしても
「もっと良い案はないのか。」
「これぐらいだったら、1日でできただろうに。」
ときつい注意を与えた。
 Aは更に奮起して、仕事に頑張るのだが、「膏薬(こうやく)と注意はどこにでもできる」の格言の如く、更に高度で難しい要求がきた。
 Aはくじけずに上司Bの意を汲んで精を出そうとする。
 ただものの言い方や考え方が、いつのまにかBに似てくる。そして最愛の妻にも同じようなきつい言い方をするようになってしまう。
「もっと優しかったのに。」
と妻は夫が機嫌の良い時、そっとささやく。反抗である。
 Aは自分でも気づいていることだけに反発し、喧嘩となる。
「相手の良いところを認め、感謝する」のが、家庭での考え方だし実践である。
「もっと上を目指して」など思っていても、子供にさえ言ったことがない。
 ところがその言葉が頻繁になると、我ながらいやになる。おかげで上司Bともうまくゆき、出世の道も開けてきた。考え方が似通ってきたからであろう。鏡で反射するような言葉と行動ができるようになった。しかしこのままでは、暗い道だ。出世しても家庭で不和が絶えぬとは、決して幸せではない。もうそんなに稼がなくとも良いのではないか。いや上昇志向を止めた途端、職場でBからムチが飛んでくる。

 トルストイの晩年の民話に
「今日、歩いた道の範囲だけ、君に土地をあげよう。」
と言われ、一日中歩き回り、膨大な土地を手に入れたが、帰りついたらバタンと倒れてしまったという話がある。
 民話風にした短編小説である。
「人は小さな家と庭に満足し、小さな幸せに感謝するのが良い。」
というアドバイスも添えられている。
 トルストイは広い土地を持った大貴族の子供である。この民話を書いた前後に自分の土地を小作人たちに分け与えている。ロシア革命の夜明け前の時代である。
 トルストイの「幸福論」からすれば、住む土地は狭くて良いし、持っていない人たちには平等に分かち合うべきで、本当に自分の財産を元に実践したのはすごい。
 トルストイ夫人がカンカンに怒り、反対したのは有名な話だ。賛成するわけがないし、不和は高じて、トルストイは家を追い出され、野垂れ死にをする。
 有能な夫につらくあたり苛めた、三大悪女はソクラテス、モーツアルトそしてトルストイ夫人と言われる。始めはおとなしかった夫人方は夫の気質が乗り移り、夫以上に才能を開花させた。 
 始めは処女の如く、扉を開ければ脱兎のごとし。
 孫子の兵法は、扉を開けて外で活躍する男への戒めを語っている。

 A夫人は泣き寝入りをしないだろう。もしAの考え方や行動がBに習って正しいなら、近いうちのいつか必ず似たような、いやもっと激しい行動を取るにちがいない。
 Aが全体のバランスを考え、行動の修正をするか。あるいは会社と家庭では、TPOをよく考えて相手に応じて行動パターンを変えていくかだ。すぐにはできない。転換点では、思慮と分別が必要だ。
 思っていることと行動を分離する。ワンパターンに流れない。臨機応変。環境のせいにしてはいけない。環境を順風の見方にして、変化を遂げる。少なくとも環境を敵にして屈してはならない。環境こそ最良かつ最大のパートナーだ。
 今こそ生きていくため人生戦略が求められる。

 トルストイも変革の方法と可能性は知っていただろう。そこでニヒリズムに包まれてはいけない。くじけずに頑張る。大思想家も長生きするためには、基本的な考えは同じように大事だ。投げたら終わりだ。
 Aは通勤途上で、トルストイの文庫をこっそり読んでいる。別の先輩から薦められたからだ。人類の知恵とも言うべき民話に出逢うだろうか。出逢って叡智と希望そして「足るを知る」という老子以来の東洋思想を学べるだろうか。
 転換点は賭けである。大きく転換すれば、得るものも危うさも増える。じっとしていてはジリジリ落ち込む。Bへの対応は試金石である。一つ上の昇進を目指して、賭けが始まる。「Bをも追い越して昇進する」という野望さえ生まれる。家庭の幸せと両立できるか。幸せから考えれば、更に良い道も見つけられるかもしれない。
                            

 言葉
 その人でなければ、頻繁に吐かない言葉がある。本人の信念であり、好きな言葉である。世間の常識から考えると、「ちょっと待って」と顰蹙を買う言葉であっても、闘争、やくざ映画が大好きとあっては、ほっとした瞬間ににじみ出る。
 ねじを巻く。みかじめる。ドタバタする。
 
 5月21日(月)金環食が当地だけは小雨で見られなかった。翌日は晴天。
「いやがらせだよ。」とつぶやく。
 カメラの名人だ。

 何度も側で聞いていると、本人の気分がよくわかる。怖がったり、嫌がったりしているようでは、いつまでも心の距離が縮まらない。
 背広を着た紳士が「ねじをまけ」などと呟くのは、アンバランスとはいえ、迫力がありドラマティックでおもしろい。

 孫子
 孫子の兵法で「敵の攻めざるところを守り、敵の守らざるところを攻める」という箴言がある。みんなと同じにやっていては、埒があかないし差もつかない。固定観念を排除し超えてこそ、戦略の雄となる。
 勝負は一瞬、すべてのけりがつく。常識に従い、表面通りで勝つわけがない。単なる物量戦術で終わる。「敵の攻めざるところ」を探り、固めることで、攻守は立体的になりタフになる。全身全霊を傾け、「敵と己」を知らなければならない。敵の立場で味方を徹底的に攻めてみる。逆のシュミレーションもおもしろい。まず何度も戦ってみて、それから本番だ。予習、復習が大事だ。それでたった一度の本番に勝てる。




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