羽生善治名人

 羽生名人が、森内九段との名人戦を前に、新聞社とのインタビューに応じている。読んでおもしろかったことを、メモした。

 羽生名人は、チェスでも日本で第一人者であり、日本代表として世界選手権に出場する。チェスには資格で、プロ、アマの区別がない。チェスは白と黒の駒からできている。終盤では、お互いの駒が少なく静かな局面に変わる。
 相手から取った駒を使うのは、日本の将棋だけで、終盤が激しくなるのは、世界でも将棋だけである。このことは、日本の俳句、和歌、茶道に通じるところがある。物事をコンパクトに絞っていくとともに、再利用する点である。
 将棋の駒は、文章の「て、に、を、は」と同じで、つなぎが大事である。「て、に、を、は」の一つを変えただけで、文章ががらっと良くなり、価値が上がる。一つの駒の動きやずれが、全局面に影響を与え、優勢に導ける。
 劣勢の時は、差が開かないように心がけている。無理して奇抜な手を差すと、いっぺんに将棋を駄目にしてしまう場合がある。そのままの差でついていくと、いつかチャンスが生まれる。
 終盤は論理と論理のぶつかり合いだ。曖昧なものは許されません。しかし終盤までは曖昧なものがあっても良いのではないか。特に日本人は人生や会社勤めにおいて、曖昧なものが必要に思われる。論理だけでは、どうしてもギスギスして、仲間外れになりやすい。
 健康のために、特にスポーツはやりません。ジョギングなどつらいスポーツはやりません。対局の時、二つか三つの駅から歩くことぐらいです。
 新しいものを創ろうと努力しても、生活が同じだと、なかなか良いものが出てこない。そこで朝、早く起きるとか、和食から洋食に変えるなど、生活のリズムを変えるように努めています。だから十年後の自分は、今とがらっと変わるものになっているでしょう。なっていたい。
 
 羽生名人は、インタビュー、即ち質問に対し、簡潔に答える。間を置いて考え、例の羽生にらみで、質問者に真意をつかもうとする時もあろう。要点を答える。と同時に答えの要点は、相互に関連し、高め合っている。
 生活については、ルーティン化しないのがこつと述べている。長い間、第一人者として君臨し、これからも可能な限り、そうであろう。可能の年月をより長くするためのポイントが、反ルーティンである。ルーティンは英語で固定化、マニュアル化を意味し、将棋で言えば定跡である。職業としての将棋だけをルーティンすることは難しい。日々新た、人生は可能性に満ちている。
 この決意を表現するのに、仕事言葉のルーティンを使うのはおもしろい。

 羽生名人は、何でもできる。ランボウが七ヵ国語をくまなく活用したように、将棋からチェスまでたくさんのゲームをマスターし、勝ち続ける。
 「ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」もおもしろく読み、理解している」
と、私は別のテレビ番組で聴いたことがある。
 言語は思いや感情の表現であるとともに、論理の組み立てである。言語をマスターするには、論理力が必要であり、論理力こそ言語のしくみや歴史、構造を探求する原動力になる。
 ランボウは、自分の頭の中で、母国語のフランス語から英語、ドイツ語へと、バイリンガルに翻訳できた。翻訳は言語だけでなく、人や物事、風景から言語へとなされ、詩が生まれた。
 羽生名人も諸々の生活から、将棋の名手を生み、タイトル数を増やしていく。生活をリフレッシュし、ときめかすことが本業の将棋を活性化し、魅力をいやます。生活のルーティン化は、マンネリであり、堕落、後退につながる。決して許されないものである。
 
 羽生名人のインタビュー記事を読みながら、このルーティンという表現がとりわけ、おもしろかった。

 激闘の末 
 第69期将棋名人戦は、七番勝負までもつれ込み、手に汗握る大熱戦となった。私たち将棋ファンは、寝食を忘れ、「赤勝て、白勝て」と双方を応援した。羽生名人は、三連敗の後、三連勝と驚異の粘りを見せた。最終局は、両者拮抗、まさに運鈍根の世界で、いずれにも勝機はあった。
 森内新名人は、何よりも堅い守りから分厚い攻めを武器に、「鉄板流」と称せられる。鉄板の如く、敵の攻め駒を撥ね返すのが謂れだが、名人に「鉄板」とはいかがなものか。
 ご本人が鉄板を気に入っているかはともかく、「鉄壁流」とか「完璧流」と上品で強い言葉に改名されてはどうだろうと思う。

 おまじない
 ある詩人は、書きかけのメモを財布に入れる。この詩が、いつか世に出ますように、もっと推敲できますようにと願いを込めて財布に入れる。だってどんな貧しい者でも、日に一回や二回は、財布を手にする。
 財布を開ければ、詩のメモに触れる。この詩に、新しい着想を加え、描かれた言葉をさらに磨くからだ。ランボウが、「推敲は言葉の錬金術」と言っただろう。
 詩のメモは馬券や舟権、宝くじの券と同じ格好をしているからね。いつか世に出る、今は苦しい生活の糧になる。メモは未来への賭け、心のともし火である。

 本屋
 探したい本は、店員には尋ねないようにしている。聞けば簡単だが、街の道と同じく、それではちっとも覚えない。苦労してお目当ての本に出会えば嬉しく、それまでに色々な本を目にし、手にしている。
 本の並べ方から、種類、お客様へのPR方法かた店主の考え方まで推察できる。つまり今、この店にはいないであろう、リッチでブリリアントな店の経営者とも対話ができる。
 近代小説の神様フローベルが、
「世に同じ石は、一つもない。石は一つ、一つ違う。」
と弟子の鬼才モーパッサンに教えている。
 本屋は一軒、一軒違う。同じ本屋さんでも、プチ・リニューアルしていけば、一ヶ月ごとに微妙に違う。
 お客様に見やすくしたい。しかしお店のスペースは限られているから、別のお客様には見にくくなる恐れがある。あるいはお得意様がお目当てにしている本を、展示スペースから外してしまうことになる。
 だから志のある店には、新たな発見ができるような仕掛けが張り巡らされている。単にチーフ格の店員が、売り上げ増を目指して、本を並べ替えしているだけかもしれないが、知恵と工夫がおもしろい。トレンド、ファッションと称して、ベストセラーをお店のど真ん中に置く。レアな本にもこだわり、とにかく粘って売れるまでと、いつもピカピカに並びすえる。
 私は一冊の本を時間をかけて探しながら、この空間にまつわる人たちとの対話を楽しんでいる。もし本のありかを店員さんに尋ねて即答されると、折角の楽しみが一瞬でおじゃんになってしまう。

 古本・レンタル店
 街のど真ん中に、古本を扱うレンタル店がある。古本と言っても、今月に発売されたばかりのピカピカだ。中には、金、土、日曜日の夜を徹して読み上げた五百ページの分厚い本もある。まるで犯人が指紋を残さぬようにと、白手袋をはめて、読み進めたかのようにきれいだ。
 マドンナが恋愛遍歴者を一回、一回新鮮と
「ライク ア ヴァージン」の曲と心を込めて歌うように、新品同然だ。扱いの悪い本屋に並べられた新品以上にピカピカと光っている。 
 もはや古本屋ではない。本は研ぎ澄まされたナイフのように鋭く、グレードを上げる。少なくともグレードを落としはしない。定価千円の本が、四百円で買い取られ、六百円の値札を貼られる。次のサイクルでは、三百円での買い取りが相場だが、人気があれば値札は同じく六百円だ。隣りにある「新品の本屋」が泣いている。
 しかしこの古本・レンタル店は仁義を持っている。分厚い赤のカーペット、貴族の邸宅にあるような黒光りする書棚、CD・DVDケース棚、カクテル光線が当てられている。きっと人気のあるファッションショーを取り仕切るディレクターが、光線の方向と配置を考えるのだろう。周りの歩き、探す道は、暗めに落とす。
 ハイ・テンポの音楽が、さながらミニ・コンサートのように奏でられる。マイケル・ジャクソンやマドンナ、宇多田ヒカルの曲ばかりか、バッハやモーツアルトまで上手に交替しながら耳に迫る。ただしほとんどの曲も、軽快なハーモニーに、時にはジャズ風にアレンジしているから
「おや、誰の曲かしら」
と興味をそそられる。
 そして笑顔あふれる店員。勝負球を待つゴールキーパーの気分で、カウンターでさわやかな声を発しながら、お客様をお待ちしている。笑みと明るい声を聞きたくて、本を買ってしまう。少なくとも遠くからで良いから見たいと、足繁く顔を出す。
 店は、本やCD、DVDというボールをもとに展開しているグラウンドのようだ。コーヒーやタバコ、お酒などが趣味や好みの領域から生活の中心習慣になるように、この古本・レンタル店に顔を出すようになる。
 
 新しい中古本は、ないかね。自分が先日、売ってしまった本は、今、どんな値段になっているのかしら。
 あるお金持ちの紳士が、この古本・レンタル店にどっさり愛読書を売り払った。広い家なのに手狭になったからだ。週に一冊づつ読んでいけば、そりゃたまるだろうに。電話で頼み、トラックで持って行って貰った本はどうなっているのか?
 気になって、その古本・レンタル店を覗いてみた。
 犯人が、おしゃれな服に着替え、ダテ眼鏡をかけて、犯行現場をもう一度、覗いて見たくなる心理に似ている。店がピカピカ光り、ガンガン鳴り響く音楽に、年齢は自分の子供ぐらいの店員さんばかりだ。久しぶりに帰った故郷が、まるでユートピアのようにあかぬけたニュータウンに変身した姿に驚く。
「よい店ですね。」
と褒めることを忘れなかった。
 ちなみにこの紳士は、ハードボイルド小説を好んで読んでいた。未練はその場ですっぱり切って置いていく。

 花六
 花六は、囲碁の用語で、六目中手の攻守を指す。もとはと言えば、唐の大詩人白楽天が「六しゅう にわかに花となる」という詩から由来する。「六しゅう」は、六つの集まった石のことで、まさに囲碁の折衝を表す。片や攻め、片や守り、六しゅうに落ち着く。
 表現は優雅であるが、必殺の恐ろしさを秘めた高等戦術である。
 白楽天は詩作の傍ら、囲碁を楽しんだ。時には逆であったかもしれない。それはともかく優雅さと鋭さの両立は、白楽天の得意とするところで、一般の詩人はいづれかに偏る。白楽天は物事を厳しく批判しながら、温かさや優しさが漂う。突き放しはしない。逆に愛情こまやかに詩に歌っていても、鋭い剣のような切込みを行う。それも短い詩の中で、両者をバランスよく表現し、真相に迫る。
 花六は、白楽天が歌い始め、その様を愛し、白楽天自身の姿である。
 囲碁は手による会話、即ち手談と呼ばれる。花六は、美しい花にして戦い、名人にしか達しない境地であるが、アマチュア棋士の盤面にも突如、現れると思えば楽しくなる。
 


トップに戻る