石垣島


 石垣島は南の島だ。沖縄へ何度か、旅した者は、周りの島々へ足を伸ばしたくなる。足を伸ばすと簡単に言っても、石垣島は那覇から空路で50分、船では三時間は優にかかる。戦後すぐ、昭和23年頃沖縄本島から移住して来た人たちが多い。きっと米軍の基地建設により、強制的に移らされた。
 旅の途中で、観光バスに乗った。
当時はマラリアが蔓延しており、住めない地域がある。そこに移住を許され、必死で開墾した。共同で売店を経営し、その収益をみんなの開墾費に充てた。観光バスから、今なお続く、共同売店が見える。
 琉球王国時代は、宮古島などから、強制移住させられ、開墾に当たる。八重山諸島と言っても繁栄はまちまちで、人口が増え過ぎると、他の島に移される。宮古島では道を挟んで片方は残り、他方は石垣島に強制移住させられる。いわゆる線引きで、わかりやすいと言えばわかりやすい。放っておけば全員が飢え、苦しむ。恋人たちもその例に漏れず、男は残り、女は移された。きっと親も一緒だったろうが女は恋しくて、山に登った。頂きからは宮古島が見えると思ったからだ。きっと見えたであろうが、海は広く、帰るすべはない。絶望から足元を揺るがせ、死を招いた。
 二つの悲しい物語を、入社4年目の若いガイドが、神妙に話す。毎日のように話しているのだろうが、今にも泣きそうなすごみが現れる。私たちも聞いている内にもらい泣きしそうだ。
 三線で、明るい郷土民謡を歌う。島歌だ。ぱあっと空が晴れたように、バスの車内が明るくなる。
 台風の襲来に備え建物が平べったく、屋根は低い。空がでっかく、近くに見える。海岸に行けば、波がざあっと押し寄せる海と、空だ。
 童心に帰る。街での生活は、ああでもない、こうでもないと、人の目を気にして右往左往することが多い。人に認められなければ出世ができないし、「耳に心あり」と書いて恥と言うように、他人の言動に心を煩わされて、生きてゆく。
石垣には、でっかい海と、空があり、大地がある。

 海辺を3時過ぎに散歩すると、漁師さんが二人で語り合っている。「どこの海域が魚がよく取れるか」「潮の流れや風が強い時は、あの辺りは気をつけたら良いぞ。」とでも話しているのだろうか。
 親方と従業員というより、先輩と後輩という感じで、片方がアドバイスをしているようだが、もう一方も同じように、熱心に語り返している。
 防波堤の手前まで歩くと、長いカヌー漕ぎの練習をしている。
 こちらは先生が船尾にいて、大きな声で語りかける。メガフォンは使わない。沈黙があり、十五、六人の高校生が、自らの掛け声に合わせで漕いでゆく。細長い船が三つ、距離を保ちながら、防波堤内を楕円状に漕ぎ進む。距離を保つことが、本当は大変なエネルギーと技を要する。太陽がギラギラと輝き、さらされた肩や腕は、黒光りするのが、遠くから見ていてもわかる。汗がどんどん落ち、船泊まで響く掛け声に、喉はカラカラだろう。
 二人の女性が、私のすぐ側に座り、メモを取る。きっと選手たちのお母さんで、コーナーを回るごとに、記録を取っているのだろう。身を乗り出さんばかりに、私まで緊張する。ボートが一周するのを見計って、席を立って、ブラブラ帰ると、さっきの漁師さんたちが、まだ熱心に語り合っていた。

 沖縄、特に石垣、西表島は観光立国だ。西は太陽が入る方向だから「イリ」と読む。「イリ、オモテジマに明日は行くんだ。」と幹事から言われて、地図を見ても、発音がわからなければ、見付けきらない。西表島は、天然記念物のイリオモテヤマネコが生息し、島のほとんどが開拓禁止だ。それでも道路に出て、はねられると言う。
 港から仲間川のマングローブクルーズに乗り出す。三十名乗りの船は、エンジン快調に乗り出す。仲間川と言っても河口付近は海水ばかりでかなり入った所でも塩分が混じる。潮の満ち引きにより、大きな橋のかなりの部分を歩いて渡れる時間が発生する。
 この干満の差を利用して、マングローブは、繁殖する。枝から、下に垂れ下れば、根になる。風にも敏感で、強風を意識して、幹の高さはそろえると言う。まるで人間の集団行動のようだが、枝が一本だけ高くなれば、風がもろに当りそでてしまうのだろう。男の若いガイドは、船を運転しながら、耳からぶら下がったマイクを使って、軽快に喋る。
 「先日の台風2号で、マングローブはかなりやられました。高さが10mを超える木でも、根は50cmぐらいしかありません。踏ん張りが利かないのです。」
 それからも流暢に説明していたが、私にはこの「踏ん張り」という言葉が良かった。というのもこの旅行に来るまでに、悩むことが多く、そもそも「若者が多い旅行に参加するかどうか」を独りモジモジ悩んでいた。
 幹事が「冠婚葬祭以外では欠席を認めません。積立金もお返ししません。」とメールが届き、仕方なくというか、背水の陣を攻められて、参加に踏み切った。積立金は毎月の給料からコンピュータで強制的に引かれて、天引きと称している。
 心はグラグラしながら、旅行に引っ張り込まれた気色であったが、若者の「踏ん張り」という言葉に活を入れられた。しかも説教ではなく、さりげなく、話の相手は青々と繁り、陽に輝くマングローブだ。
 途中で岸に上がり、樹齢400年の大樹を見せてもらった。
「この樹には年輪はありません。幹が1年に5mmほど伸びるので、400年と推定されます。」
 と説明を受けた。
 船の降りがけに、手の内を聞いた。
「色々な案内書を読んで勉強しています。」
と照れながら、若きガイドは話した。
本当は「踏ん張る」をどこで仕入れたか、愛読書は何かと尋ねたい所だが、時間が乏しく、激励してくれたことだけで十分だと思い直した。
島の年配者は、先祖代々、この地に生まれ育った人が殆んどだが、若者は、本土から来た者が多く、派遣社員もかなりの数になる。
旅で石垣島と聞けば、わくわくする夢の島だが、いざ働くとなると3kとまでは行かなくとも、日々しんどい。相手の客こそ変われ、仕事の中身はほぼ同じ、そこで踏ん張り、意味を見出し、根性を入れて、頑張ることこそ、「踏ん張り」だ。
引けば、荒海しかない。

西表島から由布島へ渡る牛車は、島の人だ。牛車が観光名物だと聞いて、私たちのグループも予約していたのだが、牛車の台に十五人も乗るのを見て気が引けた。水牛は可愛い目をし、さすってやりたいような優しさだ。私が丑年ということもあり、余計に同情以上に心配を覚えた。
牛使いは明るく挨拶した後
「みなさんの中には、水牛が可愛そうという人もいますが、水牛は一日に数往復すれば、たくさんえさをもらえ、ゆっくり眠れます。もっと重いものだって運べます。」
さあ行こうかとタオル振れば、水牛がやおら動き出した。水深は30cmぐらいを、ジャブジャブと進んでゆく。お客は初めての体験を喜ぶ者と、水牛を気の毒に思い肩をこわばらせる者が二つに分れる。
牛飼いは空気を読み取って、やおら三味線を取り出し、島歌を披露する。見上げれば荷台の屋根には、歌詞が所狭しと貼ってある。その中からお客さんにリクエストさせ、鍛えた喉を披露する。この歌声の心地良さに、水牛はのっしのっしと進み行く。
歌が鳴り響けば、人荷を引かねばならぬと、肌で覚えたのだろう。
「台湾から、戦前は、農耕用に連れて来られました。」
由布島に着けば、えさをもらうか、暑ければ、池に入れてもらえるそうだ。私たちは島の料理を美味しく食べ、馬や山羊の飼育場や植物園、蝶園を見て回った。帰りの水牛は、別ので、「やる気満々」と紹介された。

竹富島も晴れていた。気温が31度と聞いても、蒸し暑くないせいか、さっぱりした感じだ。
サングラスをした女性が港に待ち受けていた。ドライバー兼案内係だ。
「何年ぐらいガイドをされていますか。」
野暮な質問とは知りながら、尋ねてみた。
「ええ、随分。」
語りが抑揚が利いた上に、歯切れがよく、間合いも適当に取る。プロの語りだ。
竹富の街並みに入る。家は背を広くし、石造りか、近代はコンクリートの立方体づくりだ。台風銀座なら、厭がらずに、悪友とのひんぱんな出会いと同じく、待ち受けるしかない。自然に高級リゾード地の雰囲気を醸し出している。
一週間や二週間の保養、観光なら、海を見とれていて、満足できる。いざ何年も住もうとなると、生活の不便さや刺激の乏しさから、相当の覚悟が要る。ゴーギャンが、南海のタヒチに移り住んだのも、便利過ぎる文明や、ちょこちょこした人間関係から解放され、画業に専念したかったからだ。ゴーギャンは大自然を描きながら、心を、それもパリと家族と訣別した覚悟、そして矢張り、帰りたいセンチメンタルな感情を表現した。時折り、絵の中に、キリストや先祖、天使に悪魔が出て来るのも、心を見詰め、文明や宗教の根幹に迫り、考えたからだろう。南の島は色彩が豊富で、絵の具がついていけないぐらいだ。
また牛車に乗った。水牛は二十名の客を乗せ、街中を歩く。
ガイドブックには、必ず載っている光景だ。竹富島に来る者は乗る。一度、乗ってみたいからで、日本での牛車はここだけだろう。
「アカベイ君は、やる気がありません。さあ行こうか。」ブラック、ユーモア調で案内は始まる。
道は牛車でいっぱいで、前方の角で立ち往生していると、こちらも止まる。道には砂が敷き詰められ、わだちが食い込む。
私はできるだけ、楽しもうと努めた。家並み、赤瓦の屋根と石垣は、きれいでそろっている。ハイビスカスの赤や黄の花が咲き、小鳥はさえずり、心地よい風、夜に月が出れば花鳥風月と満点だ。
水牛に水をあびせる。
「牛は犬と同じく、発汗作用がありませんから、水をかけて、体温を冷やすしかありません。」
若い男性は本土から来る者が多く、派遣社員もいる。
「さあ、やる気を出そうよ。」
と二重にしたむちを背に当てる。
牛は悲鳴を上げることなく、よっこいしょと人がいっぱいの荷車を押す。悲鳴を上げたら、またむちが来ることを知っているからだ。
もし、この男が、この牛を子牛の時から飼っていたら、もっと可愛がり方があろうにと思う。それ以上にこの男性労働者に、もっと愛が注がれればいい。
ギラギラの太陽に、汗ばむ。自転車観光もあると、後で聞いた。今度、来る時はそれにしたい。
展望台に登れば、緑いっぱいの島がよく見える。360度にぐるっと回れば青い海がどこまでも広がる。

生き物については、ニイチェが病に倒れる前の逸話を思い出す。ニイチェが街を歩いていると、馬車が通り過ぎる。馬の走りが悪いのか、御者がむちを当てはっぱをかける。
ニイチェはこの光景に心を痛め、御者に「馬にむちを当てないでくれ。可愛がってくれ。」と懇願する。
私は、南のリゾート地まで来て、ニイチェやドストエフスキー、ゴーギャンを鮮明に思い出すのが我ながら不思議な気がした。人里離れ、自然や生き物に向うならば、孤独以上に私という個人にならざるを得ない。その時、孤高の天才たちに歩み寄るように遭遇するのだろう。単なる断片にしても、諸先輩のまごころに触れる。

宴会は二晩ともに盛り上がった。オリオンビールは、渇いた喉にぴったりであわもりは、肉やとれたての魚の美味さをいや増した。
慰安旅行は、職場の疲れやわだかまりを、職場の者同志でいやし、やる気を高揚させようというものだ。

三日目は自由行動で、若者はシュノーケルで潜る者が多い。私たち二人はバスツアーに参加した。お客さまは同年配の夫婦や親子連れが多いのを見測うかのように、ガイドは、ぴちぴちとさわやかな案内を通した。
川平湾では、グラスボートに乗り、海中を見る。サンゴ礁の海に、大小の魚たちが気持良さそうに泳いでいる。赤や黄、青など、虹の七色(魚の色)は、太陽の色彩をそのまま貰い、肌色として先祖代々受け継いでいる。海はどこまでも透き通っている。十メートル先の海底でも手が届きそうだ。
「湾は、場所によっては急に深くなり、流れが速いので、遊泳禁止になっています。」
と筋骨たくましい男性ガイドは、笑いながら案内する。
きっと安全な場所で、潜って鍛えているように伺える。
船は、時折、ぐらっと揺れる。風は同じだから、海流に左右されているのだろう。

サクサクと海辺を歩く。
再び観光バスに乗ると、ガイド嬢は
「石垣牛は、年中、温暖で草も豊富なことから発育が盛んです。年間、二万六千頭、出荷されますが石垣牛としては四千頭で、あとは神戸牛や松坂牛となります。ブランド名は、別に定義があります。おや、この辺りの牧場は、三日前は五頭いたのですが、見当たりません。食べられてしまったのでしょうか。」
と笑いながら話す。
私は水牛の苦痛から、やっと解放されたつもりだったが、また牛で悩まなければならないのか。
生き物には、生と死がある。労働は、生命は互いに関わり、依存し、惨殺もされる。生き物だけでなく、人間、そして私自身の将来に向けての働きと生活について、考えさせる旅であった。

青い海とでっかい空、美しい花々と樹木、純情な日焼けした顔、を見ていると、考えることが、愉しく感じられた。素泊まり二千円という民宿の看板が所々にある。また来てみたい。

「旅行には二通りある。」と寺田寅彦の随筆で読んだことがある。一つは、案内書を徹底して読み、事前に知識や地図を頭にしっかり入れておくという方法だ。あと一つは、案内書は一切読まず、現地に行き、肌で感じつつ、手探りで調べるという方法だ。前者は安全だが、確かめる意味合いが強い。後者はおもしろくわくわくするが、危うい面がある。
私は今回の旅で後者に重きを置いたが、便利なインターネットに誘惑されたし、幹事が適確な情報を教えてくれた。


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