葛飾北斎


葛飾北斎は、頻繁に引越しを繰り返したが、必ず飲み屋の隣に越したと言われている。自らそういう場を選んだのか、飲み屋のご主人や女将さんがお誘いしたのかは、藪の中だ。
画作に熱心ならば、寝食を忘れる。リクエストも多かろう。忘れていても、腹は減るし、喉は渇く。浮世絵の依頼主は、労をねぎらい、一席持つことになる。良い絵を描いてもらえば、願ったり、かなったで、絵の値打ちも上がる。構想や技の手の内もそれとなく教えてほしい。
 北斎は隣の飲み屋に足を運ぶか、出前を取っていた。いずれもすぐに用意される。
 画作料は封を開けずに、そのまま飲み屋さんに渡していた。だから一向に貯金が
増えなかった。この払いっぷりの良さを聞きつけて、飲み屋が誘致したと考える方が当たっているように思われる。凄い画家がいると聞けば、サインの一つも貰いたいお客さまは増える。北斎もその辺りはよく知っていたし、意向に乗った。
 天才は描くことに専念するとともに、お世話になった人たちへの心配りも忘れない。

絵葉書
 A氏は電子メールが嫌いなわけではないが、葉書が好きだ。思いが、縦長の白い紙の葉書にはコンパクトに余韻を残して伝わる気がして、長く愛好してきた。
ハードカバーの本に、葉書を挟んでいれば、電車やバスに揺られながら気安く書ける。筆に詰まっても、流れる車窓に時折、目をやれば、自分でも満足できるぐらい心のこもった便りが書ける時がある。
 ところがある朝、お世話になった知人に、バス車内で葉書を書こうと思っていたら、どんなに探しても葉書が見当たらない。絵葉書があるだけだ。明日に延ばせば良いと、自分の気持ちに言い聞かせようとしても、ますます書きたくなる。仕方なく、狭いスペースの絵葉書に、こみ上げる思いを綴ろうとすると、思いのほか文が締まる。
 目では文字数をおおよそ捉えているから、その数に向かって文章がシェイプアップした体のように引き締まる。もともと短かった散文には、俳句のような切れと渋い趣きが生じる。我ながら傑作。美しい絵とともに、早く知り合いの元に届いて欲しい。
 バスを降り、ポストに入れながら、絵葉書に出会って書けた幸せを覚える。次に買うのは普通の葉書か、それとも絵葉書にするかは、思案の要するところであう。
 
 エゴ
 A課長とBさんは、表面上は仲よさそうに仕事をしているが、心の中は複雑だ。
Bさんの方が年上だが、A課長の方が、仕事がよくでき、評価も高く、上下関係が逆転した。実力主義の世の中では、よくある話というより、生産性をあげるために当然の結果である。
 A課長が遠慮する分と、Bさんが言われたことしかしないという状態が続く。
 A課長が早退した日に、BさんはA課長のゴミ箱を片付けている。片付けは各人がやることで、仕事ではない。会社とはいえ、私的なことを部下にさせてはいけない。
 ところがA課長が帰るや否や、Bさんは自主的にA課長のゴミを大きな袋に移しかえた。殊勝なことと、Bさんの行動を見直した。日頃の勤務態度からすれば、驚くべきことで、小さな職場にあっては、青天の霹靂に近かった。
 私がそれとなく誘導して、Bさんの本音を聞きだした。
「A課長はよく咳をされるでしょう。つばきがかかって来ないかと、私はマスクをして、体を守っているのです。風邪を引いている方が、マスクをするのがエティケットでしょう。されないなら、自分がするしかないのです。
 それに鼻をかんだ後のティッシュには、ばい菌がいっぱいらしいですね。うつされたら大変です。だからすぐにゴミ箱を片付けて、すっきりさせているのです。」
 Bさんは、流れるように心の内を語る。善いことを、それも自分自身に善いことをした思いでいっぱいなのだろう。
「体調はいかがですか。早く治されてください。」
と本音で言えるようになれば、二人の関係も改善されると思う。

アラン 
 フランスの詩人で哲学者のアランは、短く綴ったエッセーで有名になった。ほとんど独学で哲学を学び、高校の教師をして身を立てていた。エッセーの評価が高くなると、大学の教授に招かれることになる。エッセーは思うがままに、自由に書くのが一般的なところに、アランの場合は詩を散りばめ、根底には強い意志の哲学がある。見る人が見れば、内容の深さと豊かさがわかるのだろう。
 ところがアランは折角の教授のポストを断ってしまう。詳しくは述べられていないし、また招いてくれようとした大学の方への気遣いも多々ある。
 私から見れば、大学という金字塔にいれば、古今東西の哲学を勉強し、多くの学生に教えることができる。しかし肝心のエッセーは、伸びやかさを失い、縮こまったものになるのを恐れたと思われる。大学の権威に寄りかかることはできても、枠の中に入り、遠慮しながら書かねばならぬ。たとえ哲学を機軸にしたエッセーを書けても、伸びやかな詩情は薄れる。
 アランは一生、高校教師で通し、優れたエッセーを書き続けた。教えを受けた学生たちは、幸せだ。
 時代はまさに全体主義が台頭し、世の中が不安に包まれる。アランは、本当の人間としての生きかた、哲学そして自由な詩を求め続けた。金字塔に留まるだけでは、もったいなく、まして食べるための収入は、高校から十分に貰っている。
 アランのエッセーは、自由で伸びやか、そしてヒットラーやムッソリーニにも議論を挑み、真理を戦わせている。

 賭け
 随筆家Cは、随筆集を出そうと思いながら、なかなか果たせない。一つには勤めているので、時間が取れない。かといって休みの日には、エッセーを書くより外に出て遊びたい。書きたいものが、本当にあれば、スラスラと書けるとは思う。それ以上にギャンブル癖がなおれば、執筆に専念できる。
ギャンブルと言っても、大金を賭けるわけではなく、ロト6で、みんながやっている庶民的な遊びだ。凝り性のCは、当選ナンバーの一覧表をコツコツ作り、ついに2等を当てた。一覧表ぐらい、インターネットのホームページを見れば、すぐに出てくる。そこを手帳に書くところが、随筆と一脈通じるところがある。
ついに2等を当て、小遣いの10ヶ月分を手にした。今までの掛け金から思えば、負け越しているが、欲が出る。本当に6個当てて、2億円を手にすることができる。勝利の女神は、私のそばで微笑みかけているではないか。
当選番号の一覧表作成と予想には磨きが入った。
「プロの読みができるんだ。」
と教えてやりたい気がする。
 半年間、1回も当たらない。たった3個当てれば、千円当たる4等にかすりもしない。イライラしながら、くじを買えばますます遠のく。
 好きなエッセーも一向に進まない。心が明るく、幸せを感じてこそ、伸びやかなエッセーを綴れる。苦慮した。そしてロト6を、随筆集ができるまで、止めようと誓う。
 賭けである。オール・オア・ナッシングの根性だ。エッセーが駄目なら、それからだ。「エッセーもロトも」と思っている間は、虻蜂取らずの状態である。虻も蜂も体の周りをブンブン回っているばかりだ。
 「エッセーをものにする。」「エッセーで世に出る。」には、並々ならぬ。選択と集中そして実行があってこそ、実は結ぶ。
「ロトを選ぶぐらい、3分もかからないでしょう。少しは遊ばなきゃ。」
誘惑は、自分の中にある。だから賭けに出た。

 お礼
 人なつこいDさんは、できるだけ友達をつくりたい。妻子があるから、それほど広げなくてもよさそうに思われるが、心を許す友が欲しい。競争時代の今日にあって、親友はなかなかできない。ライバルと親友になるのは難しいであろうが、利害関係の乏しい者とも思うほどに親しくなりにくい。
 Dは、せめて近所の人たちと仲良くしたい。6月には庭の枇杷がたわわに生った。熟す前をもぎ取って、近所の人たちに配る。
「ありがとうございます。枇杷は、塀の外からよく見えていました。美味しそうですね。」
「余りほって置くと、カラスが食べてしまいますね。」
など、近所の方々は、枇杷の袋を手にしながら喜んでくれた。
 Dは嬉しく、来年の枇杷がよく生れば良いなあと思う。
 
 近所には中村さんと中尾さんがおられる。 
「枇杷のお礼にうちにあるものです」
と中村さんが酎ハイとお菓子を持ってこられた。
中村さんは、ご主人が3ヶ月前に亡くなれた。御酒が好きだったご主人が残された酎ハイの缶にちがいない。殊勝な気持ちで、缶を眺めていると、持ってこられたのは、中村さんではなく中尾さんであることに気が付いた。
中村さんは御酒と本が好きで、私と立ち話していたことを思い出していたからだ。思い込みから勘違いをしてしまった。
中尾さんはお元気で、勤めておられる。律儀で出世もせず、どちらかと言えば貧しい方に入るであろう。それで毎日、飲まれている酎ハイを娘さんが届けてくださった。奥様はおられず、父子家庭である。おばあちゃんは病気がちだ。
「いつか一緒に飲みましょうよ。」
という意味かしらと考える。ご近所にも友達が欲しいからだ。
 Dは、枇杷のお礼として素直に受け取れば良い。そして機会があればお誘いしてみたいと思う。

 楽観主義
「楽観主義と悲観主義といずれが良いか」と尋ねられれば、大半の者が「楽観主義が良い」と答えるであろう。楽観主義は、明るく、未来を約束し、人生を信じる考え方が基本にある。悲観主義は危機ばかり訴え、未来は暗くどんよりと示唆する。
 しかしいざ自分が考えを楽観的に持とうとすると、困難を感じ、一筋縄ではいかぬことを常々思う。というのも物事には、裏表がある以上、明暗も同居し、いかに明るい面を探求しようにも、暗い面はまとわりつく。一日に昼があり、同じ時間、夜があるのは、子供の時から知っている。
 明と暗は、客観的には50対50であり、思考の努力により51対49まで持っていけば成功である。明を過半数以上に捉えるには、努力と発見、それに可能性への信頼、最終的には可能性への賭けが必要になる。のほほんとして努力や創造を怠っていれば、将来はぼんやりしたままである。心技体が充実し、努力と創意により初めて明るい未来、即ち楽観主義を胸を張って抱ける。
 
 ルオー
 ルオーの作品には身近なものが多い。宗教的な絵を始め、サーカスや女性を画材とした絵には、愛がある。宗教といっても身近な教会やそこに祈りに来る信者が中心である。絢爛豪華な教会より、近所の教会、そして貧しき者のささやか祈り。
 サーカスの男女だって華やかさとは裏腹の苦労、悲しみがやや暗めのトーンの中に美しく輝いて描かれる。女性だって、元をただせば娼婦や身寄りのない老女だったりする。
 探せば、もっと素敵な豊かなモデルは、いっぱいいたろう。自らモデルに志願したい裕福な家庭の女性もいたろう。
 しかしルオーは、身近なそれも貧しき人たちを描き、光を当て続けた。
「もっと光を」はゲーテの名言だが、ルソーこそ絵を描くことで、みんなに光を贈る。それは絵を観る私たちにも、光と希望を贈ってくれる。
 ルオーの絵を観ていると、「頑張ってみよう。」「信じてみよう。」と心に誓う。



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