走れメロスを読んで


 「メロスは激怒した」で始まる「走れメロス」は、太宰治の名作である。太宰には珍しく、明るく勇気に溢れた青春小説だ。私は中学二年生の教科書で読んで以来、ファンとなり、人生の節目に再読して来た。
 心の節目とは、くじけそうな逆境の時であり、メロスの勇気ある行動に鼓舞され、前に進むことができた。心の恩人である。
 メロスは暴虐な王に反抗し、正義を通すために友人を人質にされながら故郷に帰り、妹に早めの結婚式を挙げさせる。しかし帰路、山賊や悪天候に苦闘する。やっと約束の時間に走りつき、潔白を晴らし友情を分かち合う。
 王はこの光景を見て、罪を赦すとともに
「私も仲間に入れてくれ。」と願い、そこに集まっていた群集から拍手で迎えられるというハッピーエンドの物語だ。
 どんな困難が起ころうと、強い意志と信念があれば、必ず目的は達せられ、希望は叶えられる。私はこの小説の主題を心の拠り所にして生きて来たと言っても過言ではない。
 しかし人生は一筋縄ではいかない。いかに努力しても、必ずしも成功しないし、裏切られることもある。私は三十五歳を過ぎた頃から悲痛を身をもって体験するにつれ、「走れメロス」を素直に読めなくなった。
 それに読んだとしても
「友よ。俺を思い切り叩け。俺は一度だけお前が帰って来ないのではと疑ったのだ。」
という懺悔の告白に目が向く。
 メロスだって疲労がたまる中、
「これだけ頑張って走ったのだから、もう善いのではないか。」
と断念への誘惑に駆られる。
 正義の人でも魔が差すのか。
 私はいつしか王の気持に近いものを感じ始めた。善と悪の区別をつけ、善人でありたい。しかし告げ口や裏切りに遭うと、人間が信じられなくなる。それも敵からではなく、信頼していた友や仲間から痛い目に合う場合が多い。なぜなら近しい関係者ほど、情報は緊密であり、状況や力関係が変われば、愛と憎しみは紙一重だからだ。
 王もきっと初めは、正義や愛を信じていたにちがいない。しかし外交、内政を重ねる内に、幾多の困難に出遭い不信の念を増した。王という国の頂点に立つからには、困難や裏切りは誰よりも多く、深く傷ついて行ったにちがいない。
 私のような凡人には、王の苦しみや悲しみを知る由もない。しかし善良な王は、いつしかメロスの対極に位置し、暴虐を振舞うようになった。太宰治は暴君ネロをイメージしながら、この小説を書いたのではないだろうか。ネロは憎き者や奴隷を大衆の前で、ライオンと戦わせたりしている。
 私はいよいよ定年が近くなると、王の気持がわかる。あれほど部下を教え、可愛がって来たつもりなのに、
「もう今後は、用はありませんよ」
とばかりそっぽを向き始める。
 私の思い過ごしかもしれないが、私の周りには段々と人がいなくなり、ついには「ポイ捨て」される。それが定年であり、孤独と不信のピークとなる。定年は諦念であり、断髪して四国巡礼しなければ、乗り越えられない逆境だと感じた。
 「メロスよ、遅れて来るが良い。そうすればお前は赦され、自由になれる。」
 王の皮肉と侮蔑は辛辣だ。
 帰って来るはずがない。どうせ国民は我がままで自分の事しか考えない。友が身代わりで殺されるなら、こんな結構な話はない。
 と同時に、心の片隅では
「帰って来て欲しい。帰って来いよ。」
と願っていた。
 メロスたちが、ほんの一瞬、友に疑いを抱いたその逆に、王は信頼の可能性を抱いた。
 メロスが生還した時に、最も喜んだのは王であったろう。
「お前たちはゆるされたのだ。」
 大きな拍手は、メロスや友ととも王にもなされた祝福である。王こそゆるされた。悩みや疑いの地獄から解き放たれ、信じる道を歩める。
「走れメロスよ」と心中で叫び続けたのは、王であった。王こそメロスを待っていた。

 私は定年後も再雇用され、同じ職場で働かせてもらっている。幸い、周りの人たちも暖かくしてくださる。私は機会を見つけ、今まで培って来た経験や技能を後輩に伝え、教えていきたい。こんな気持を支え援けてくれたのが、「走れメロス」であり、隠れた主人公たる王である。感謝している。
 蛇足ながら、小説では少女が群衆の面前で、裸のメロスに緋のマントをかけようとした。少女もずっとメロスの帰りを待っていた。その淡くも恋しい気持にも、思いを馳せてみたい。

 論理
 日本人は論理的な思考が苦手だから、論理的に考えられる人は頭が良いと、かげながら尊ばれる。阿吽の呼吸とか、腹芸、表と裏、建前と本音といった二重構造の生き方が、世渡り上手で生活の知恵とも呼ばれる。狭い日本では、真っ向勝負すれば、いつも関が原の戦いみたいに激しい対立、勝負、戦争となる。
 しかしアメリカ及びヨーロッパの流れを汲んで、論理重視の思考に偏ると、論理力そのものの勝負になりやすく、いつも論争、そして喧嘩になってしまう。頭が良く、読書に励む人が必ずしも出世できないのは、論理過剰のせいもある。休日は、ゴルフや近所のボランティア活動などに汗を出してこそ、知恵の集積たる古典を読むことも生きてくる。ゴルフや町内会にも知恵は豊富にあり、教えられることも多い。シングル・プレーヤーからは、技術の上達や継続の価値、競争力強化の方法について、ヒントを得られる。また長老の方と話せば、長生きのこつや楽しみを授かる。これらのこつやヒントを集大成し直したものが、論理である。
 論理は思考の根底、しかし心の底は感情がある。論理と感情の優劣をめぐっての格闘は、万人の悩みであり、愉悦の源である。論理は鋭く強力に磨かれた方が良い。その様をどうとらえるかは、心が見守っている。
 敵にも慈しみを。
 論敵とともに宴を催し、語り合うことは、至福の喜びになろう。いっぱい、いっぱい、またいっぱい、饗宴はユートピアに近い喜びの場となる。

 時
 時はバラエティ。物理学的に考えれば、一本の直線に進んでいる。詩人は「光陰矢の如し」と歌った。
 しかし私には、五本ぐらいの糸からできているように思われてならない。
 太宰治は男女の縁を、「赤い糸で結ばれている。」と表現している。この赤い糸は、結婚式の挨拶などでもよく登場する。
 つながりは秘めたる糸と、表に示される糸が、昼夜を幾度となく重ね合わせて、からみあうように結ばれていく。
 しかし赤い糸がいつしか別の方向へと向かう時、愛のほころびが生じ、項羽と劉邦も驚くような喧々囂々の格闘が始まる。
 時を構成する糸は、この赤い糸だけではない。生きていくために必要な糸、仲間を集め、語りたいと思う糸、さぼりたい、ほっとしたいと望む糸。
 ピンクの色を上に塗りたくり、見せ掛けをピカピカにしても、所詮、化けの皮ならぬ化けの顔。仮面舞踏会とはよく言ったものだ。仮面を被るのは、お互い様で、同じ色とか良く似た形同士で、好き好きと寄り添う。
 赤と黒、シンプルな対極としての白と黒、黄色と緑。
 ○と×。凸と凹など、距離が離れ、違いが目立つ方が相性がよくもなる。
 凸と凹の様を仮面でどう表現するかは、画家やデザイナーに任せるとして、まるで逆玉も赤い糸の縁で憧れが嵩じれば、相思相愛のラブラブ。
 いや相思相愛は、時間軸の長いスパンから考えても奇跡に近い。つかのまの素敵な時で、もともとが別れを前提として、いつでもグッドバイはOK,覚悟してますよと捨て身で勇ましく、愛らしく、艶かしく立ち振る舞う。(それはどちらからなの?)
 変化はおもしろく、一歩誤れば力関係の具合から軽いSMの世界に陥る。
 仮面を糸が操っている。それも遊び、スリリングなゲーム。リスクは大きいほどおもしろいさ。

 時の要素、物質を細かく分析するように、時を分析すれば、いくつものの要素をつれている。本当はたった一本の直線で、中には何もないはずだが、心を傾けると要素が見えてくる。人さまざまだ。
 心が一つなのにたくさんのものを抱え、包んで動いているのと同じだ。
 時は心と同じく、好き、嫌い、楽しかったこと、苦しかったことを強く抱きしめながら前へ前へと突き進む。あるいは前面に現れたものや覆い尽くす諸々の環境により、時が対応する要素の種類や強さ、濃淡は入れ替わり、立ち代わる。
 ちょうど野球やサッカーのチームが、対戦相手とコンディションによりメンバーを細かく入れ替え、二軍の選手もスターの座に踊り出られるようなものだ。
 喜怒哀楽の思い出、その時の我が心と体、家族に仲間、いけない相手の恋人、時には憎たらしい敵までが、一本に続く我が時を構成し、重要なクリーンアップのメンバーとして君臨する。
 時は生きていくための血管、熱い血がドクドクと流れる。時は心の根底にどっしり座り、スピードをグイグイ上げて、心と体をつれていく。おいおい、体の根底に心があるのではないかしら。
 流れる。流される。
 同じような行為でも、見方や立場が変われば、能動と受動になるのがおもしろい。
 文体を変えれば、文章の見栄えだけでなく、思想が、そして行動の価値が変わり磨かれるとはよく言ったものだ。
 時は人や物、事など環境のコペルニクス的な変動に対し、内臓している遺伝子や思い出などのアーカイブを組み替えて、対応し乗り越えていこうとする。人は裏切る。親しい者ほど、大事な時に裏切る。まるで絶好のタイミングを虎視眈々と狙っていたかのように裏切る。
「ブルータスよ。お前もか。」
 ジェリアス・シーザーの嘆きは深い。しかしブルータスも天下を狙いたい一人、友情だけでは、満足できない。
 これに近い裏切りが、我々の身近に起これば、時は構成要素の遺伝子を組み替え、組みかえ、総動員体制で戦い、克服しようと懸命になる。遺伝子は私だ。ご先祖様たちから頂き、今は私の心と体にある。自由自在に使ってよいし、使わなければ絶対絶命のピンチに追い込まれる。心の遺伝子は、時の司令塔になり、いよいよの時は逃げ惑って、チャンスを待つ。
 人生は立体的だからおもしろい。どこからでも勝機を見出せるし、商機もある。



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