山本作兵衛


 山本作兵衛さんは、十四歳から炭鉱の仕事に従事し、六十三歳まで地下の坑道で危険な仕事を完遂した。それから七十二歳まで、炭鉱の夜警を勤められた。炭鉱が斜陽化し、鉱山で使っていた機械類を保管していたが、盗難の恐れがあり、その警備に当たった。    
ボタ山に積まれた石炭くずも、建設現場に必要と運び出されれば、長く苦しい炭鉱の歴史も風景から消える。日本の近代化を支えた石炭産業が、石油に取って代われば、人間も機械も、ボタ山まで風景から消える。現実になっている。
 山本さんは、文章で記録を残そうと試みる。しかし炭鉱はよそからの者が多く、詳しく記述するには問題が多い。静かに終わろうとしている炭鉱の歴史に、問題を喚起することになりかねない。家族とくに作兵衛の奥様が、反対した。
 そこで作兵衛は、絵を描き、残そうと試みた。六十歳ごろから始めたが、独学である。スケッチブックにクレヨンで、炭鉱夫の働く様を描こうと努める。一生懸命に描くが、これまた妻から
「まるで幼稚園の生徒みたいな絵やねえ。」
と一蹴される。
 それから山本さんは、先生について本格的に絵を習う。六十三歳のことである。
 
 ボタは建設現場に再利用されることで、ボタ山が崩される。
坑道で使った機械は山積みにされるが、盗む者がいるので、夜警の仕事を山本さんは六十三歳から七十二歳まで勤められた。仕事は忠実にやられるのだが、何しろ夜は独り。
 戦争で失った長男のことが思い出されて、たまらない。そこで絵筆を走らせることになる。絵筆と言っても、クレヨンに画用紙である。毎日、毎日描いたから、腕も上がる。
 現在、残されている作品は、二千枚と言われているが、ビンセント・バン・ゴッホの描いた作品数とほぼ同じである。多くの対象をくまなく描く画家は、二千枚で世界を描き尽くすことになるのか。
 絵には、文章を添えた。もともと文で残したいと願った記録だけに、文と絵の両方をもって作品の質を高めた。作品を見せるより、思いを伝える、みんなが苦しくも楽しく生きた姿を、炭田が消え去ろうとしている時代に、何とか残そうと必死で試みた。
 人は食べていかねばならぬ。「パンのみに生きるにはあらず」と言われても、パンがあってこそ議論できるテーマだ。
 炭住の人たちは、職を求め、よその土地に去っていく。元々がパンを求め、危険な地下の仕事にやってきた。石炭が石油にかわれば、もう仕事はなく、家族が飢えを待つだけである。着の身着のまま、列車に乗る。みんなと映った炭鉱生活での写真は、数枚あるぐらいだ。まして坑道での写真など、あろうはずもない。

 山本さんだった、カメラを持って行くはずもない。
 白い画用紙をじっと見詰め、それから徐にクレヨンを動かす。絵のモチーフが頭に浮かべば、一気に線と色にした。
 当時の生活、風俗を記録して貴重だと言われてきた。生前も絵の評価はされたが、微々たるもので、なくなってから徐徐に価値が高まった。余りに記録が乏しく、薄れていったからだ。
 坑道で男女、二人が命をかけて働く。そのまま浴場で体を洗う。
 メタンガスの爆発のシーン、洪水の風景。風景などと牧歌的に表現する場合ではなかろう。メタンガスは、朝八時に爆発しやすいと、文章が添えてある。何度も事故が起こり、尊い命が失われた。記録などと生易しいものではない。第一巻の終わりである。昨日、爆発が起きたその坑道に、今日も新たな坑員が入り、必死で石炭を掘る。掘れば掘るほど危険は増す。
 遠賀川沿いは川筋気質と呼ばれる。きっぷが良く、元気が良いと言われるが、一寸先は闇だ。「板一枚の下は海」の船乗りと同じだ。
 和気藹々の作品もある。朝ごはんの風景だ。
 そのご飯をおにぎりにして、深い坑道に入る。職場は戦場だ。昼には腐る恐れがあると、握り飯は冷や飯。朝ごはんは、昨日たくから、朝ごはんも冷や飯ばかり。説明文に簡潔に添える。
 盆踊りの楽しい風景。
裏切りのリンチ。他の炭鉱へと引き抜きが横行し、見つかれば、逆さ吊りにして白状させる。盗難、姦通、強姦も同じだ。生々しい人生、これしかない生き様、生きている証。一寸先は闇、地獄。だから今を生きる。みんなと生きる。仕事をし、生還して帰れば、汚れを取ってさっぱりと熱い湯につかる。みんなで今日の仕事を振り返り、生きている喜びをわかちあう。山本さんの傑作のひとつだ。ゴッホのひまわりや糸杉に名作に相当する。
二千の断片をつないで、一つの作品ができる。
見る人が見れば、その偉大さとありがたさがわかる。

子供を背に負い、坑道を掘る母の姿がある。筑豊の聖母像と呼ばれる。母は坑員になり、聖母になる。おんぶされる子供は、キリストか。 
山本作兵衛さんの筆は、優しくどこまでもリアルである。心がそうであるからで、体を張ってみんなの生き様、働き様、暮らし振りを、平面の画用紙にこつこつと、描き続けた。巡礼者に通じる思いが、絵筆を動かす。 

 客観性と楽天性

互いに矛盾することなく、存在できる。一見、対極的に見えるが、別の次元であり、二つの要素を両立し、推進できると事を成し、強い力を発揮できる。
 まずは客観性を確立し、しかる後に楽観、即ち楽天性を感じ、考え、展開する。
 これが逆に客観性がなくて、楽天性を急ぎすぎると、甘くなり、唯我独尊に陥りやすい。客観性と悲観性の組み合わせでは、悲惨な状態に陥りやすい。

 二つのことを同時に考える。正確には二つの要素、次元について考える。困難で煩わしく見えるが、視野を広め、物事や人事を豊かに導く。思考を豊かに、弾力あるものと
 もっとも困難や挫折を経験してこそ、二つ以上のことを満たすのが大事という思考テーマには、たどり着かない。必要は発明の母は、思考上にも当てはまる。

 ソファー
 愛犬が夜、ソファーで気持ち良さそうに眠っている。トイプドルの血統書付きで、たいていの家庭では、家で飼っているらしい。小型犬は、マンションで飼うには最適で、賢いので(と言われている)、分をわきまえて無闇に泣かないし、愛情を持って躾ければ、排便も所定の場所にきちんとしてくれる。
 我が家は庭があり、家は汚したくないので、基本的には外で飼っていた。この夏は記録的な猛暑で(と毎年のように言われている)、犬も外の木陰で涼を取っていた。
 しかし秋風が吹くにつれ、犬も暖を欲しくなる。

 はつしぐれ 猿も小蓑を 欲しげなり
 芭蕉の句を思い出す。句集に「小蓑」とつけたぐらいだから、お気に入りの俳句であっ

 ベランダのガラス窓をそっと開けてやる。犬は天候、気温や体調などから考えて、相変わらず外で寝る夜が多い。
 その夜は台風の接近で、風がきつく気温も下がった。
 私は夜中に目覚めて、ガラス窓を開けたままにしているのを思い出した。隙間風が寝室までやってくる。目を擦りながら、閉めに入った時、ソファーの上で小型犬を発見した。犬は体を包むように丸くなり、小さい上にますます小さくなっているように見えた。
ソファーはお客様用で、きれいに掃除をしている。ふわふわした座り心地が気持ち良いのだろう。そのまま寝心地となり、すやすや眠っている。さすがにペットショップの宣伝通り、賢いものだと腹立たしさも忘れて感心した。
 この前にお客さまとして座ったのは、母だった。年に数回、私の家を訪れて夕食をともにする。家族の誕生日に集まることが多い。
「いっしょに暮らせると良いね。」
と一人暮らしの母は、私につぶやいた。
 妻が片付けに席を外している時だ。
「そうだね。」
 私のリーダーシップのなさで、それがなかなか実現できない。
「今日はご馳走さまでした。みんなの元気な顔を見られて楽しかったよ。」
と大きなソファーでみんなに語る。
 年に五回程度で、あとは一人で食べ、風呂に入って、一人で寝る。

 ソファーに一歳の犬が、すやすやと眠る。犬でなくて、母だったらどれほど喜ぶことだろう。一度も我が家に泊まったことはない。
 私は目が覚めて、その夜は長かった。

 中原中也
 中原中也は恋愛遍歴が激しく、その中で詩才が芽生え、育っていった。
 別れた彼女が、結婚、出産した際、子供の名前をつけてあげる。彼女への思い、彼つま
りご主人への推察、そして子供への憧れと夢を託して名づけられた。
 詩人がつけた名前だけに、さぞかし素敵な名前だったろう。案外、平凡なありふれた名前だったかもしれない。
 本人が後で聞いたら、驚き、喜んだであろう。 

 バランス感覚
 Aさんは、愛犬家で常に二匹飼っている。二匹だと、飼い主に忠実さと愛情を競わせることになり、情の度合いと質が上がる。
 「世渡りはバランス感覚」と信念に思っている人だけに、我が家の犬にも忠実さと愛情を競わせ、そのバランスを保ち、楽しんでいる。当然に世渡りの処世術にも、生かしているはずだ。

 時
 人が生きるとは、時と場の上に立って成り立つ。人間関係もさることながら、物理的には時と場があって、人生が生まれる。わずかな時と限られた場の中で、人は精一杯生きる。
 時の上の人生。時の上を踊り、舞い、進む。時には躊躇し、後戻りしながらも何とか前へ前へと進む。脱落したら、第一巻の終わりだ。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、人生のきわどさ、せつなさ、はかなさを描いている。人生は一本の糸にすがる蜘蛛みたいな存在であり、糸は時とも言える。生きている間だけ、自分の時であり、生きがいだ。だから時を大切にし、命をかける。時を同じくする者たちに、情を寄せ、連帯を組み立てようと思う。
時の上に踊る。
だったら時を躍らせてみようか。御者が何頭かの馬を操るように、過去、現在、未来の時を一堂に集めて、考え、語らい、夢を描いてみよう。それが芸術、コンピュータによる絵図、そして希望となる。

「人生は、風にそよぐ葦」とは、パスカルの言葉だ。そよがせるのは、風であり、時の流れだ。冷たい北風はもちろん、暖かく幸せな南風も吹く。葦も風を味わうには、しっかり踏ん張り、リズミカルにそよがなくてはいけない。あくまでも受身で揺れる。だったらスイングして、積極的に心地よく揺れてみようか。
無限大の時に比べれば、80年の人生なんて一瞬のきらめき。でも明日をも知れぬ、蜻蛉に比べれば、気の遠くなるような、素晴らしい時間が待っている。可能性として、宝物として所有しているとも言える。
明日はわが身。
明日は明日の風が吹く。
(風とともに去りぬの名言であり、素晴らしい日本語への翻訳だ。これぞ翻訳、言葉をつばめのように翻してより価値を高める) 
 時に関しては、古今東西、名言が多い。人生を想うと、いつまで生きられる、いつまで生きようかと時について、思い悩む。志を立て、まっしぐらに立ち向かう。
 時は空。真っ白な紙。今から何とでもできる。可能性の塊。

「あと しかない。」
「まだ いっぱいある。」
とらえかたは、議論のわかれるところだ。コップのビールをどうとらえるかの判断、議論と同じだ。
 時に勝つ。勝つか負けるかは、半々だ。
51対49まで勝つ確率を高めたい。人間関係だって、好き嫌いは、51対49と言うではないか。自分が好きな人、好いてくれる人が、百人のうち、五十一人いれば、良いところと思いたい。七割の人が自分を好いてくれるって? その中には仮面をかぶった敵がいるし、いつか裏切られだろうよ。面従腹背は、闘争のセオリーだし、権力や利益のあるところに、人はなびく。家族の生活がかかっているし、少数派には追い込まれたくないから、虎視眈々だ。みんな同じことを考え、悩んでいるのさ。
 深刻に考えるのも、ほどほどに。歌詞を最後の三番まで覚え、唄う人は、出世しないとも言うではないか。とことん神経質に考え詰めるより、歌詞の三番は、希望の歌にかえてみたい。

時に賭ける。時は、幸と不幸の両面を抱く鋭く光る刃でもある。少なくとも今からの可能性あふれる時を楽しみ、おもしろくしたいものだ。すると時が運をつれて、応援してくれる。時がやさしくほほえみ始める。
 
 ブラジル
 ある小さな喫茶店の店主。評判がよく、ファンも多い。
「いつかブラジルへ行って、本場のコーヒーを飲んでみたい。」
とでっかい夢を持っている。

 






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