貨幣

宮川俊朗

サマセッテ・モームの「月と6ペンス」、「罪と罰」のコペイカ。
世界文学の名作は、人間を極限にまで追い詰めて、その姿を描く。
生きるか、死ぬか。食うや食わぬか。
 一切れのパンを得るのに、何が必要であるか。
「大道寺信輔の半生」では、美しい海女を海に飛び込ませようと信輔が金貨を投げる。金貨はキラキラ光りながら海へと落ちる。
本当は自分の胸に飛び込ませようとしたにちがいない。心象風景である。
ある男Tは、たった十円の銅貨で彼女を口説き落とそうと考える。携帯電話が万能の今日、街頭にポツンと直立不動で建っている公衆電話なんて、時代からぽいと捨てられちまって、寂しそうだ。
全盛期は長く、「カエル・コール」なんて流行語になった時代もあった。
その公衆電話で、十円玉で彼女を口説き落とす。たった一分の会話のために、三日も寝ずに考えて、殺し文句をどっさり用意する。使うのは一句か二句。鉄のゴール・キーパーを一発で突破しようとする尖鋭的な攻撃。にこりと笑い、ゆるませ歩み寄らせて、ズドンとネットを揺るがす。
「きのうから一睡もせずに考えたのだけれど」
と耳をそば立たせたくなるような殺し文句のイントロ。一分で勝負だぜ。

「コインが表か裏か」を賭けるのに似ている。
「ばあやを殺すか、話して見逃すか」「善か悪か」は、コインの裏か表の賭けに似ている。
 すべては白か黒に煮詰まり、凝縮される。
 ゴーギャンの天空には、月があり、握った左手にはたったの6ペンス。明日のパンにも事欠く始末。そこで心は右手に移り、筆を握れば、でっかい絵を描き始める。
 月はおぼろ、6ペンスぐらいがちょうど良い。ご褒美にと千金、万金を見せつけられては、照れてしまう。
 心はコイン。小粒でキラリと光る。

 偶然
 コインのことを考えていた翌朝、通勤の道に百円玉を見つけた。車道の斜めになった側溝に、百円がある。二、三日雨が降っていたので誰かが落としたのだろう。近くにコンビニがあるから、つり銭なのかもしれない。コロコロと転がり、側溝に落ちた。
 百円玉は年期が入っていて、うす光りだ。余り光沢が無いと言う方が正しい。昭和四十五年と記されている。
 近くのコンビニに届けようかと思った。警察の方が本当だろう。
 私は右手に握りしめたまま、ゆっくり歩いた。誰かが見ているような気がしたからだ。もし何か言われたら、すぐに返そうと思っていた。三分ほど歩いても、誰も声をかけなかった。そっとポケットに入れた。

「いぶし銀みたいですね。」と言われたことがある。
 可愛がっていた後輩からで、その方は、私の上司になっていた。私もいつの間にか永く勤務し、ベテランの部類になっている。一日、一日は、長く辛いものがあるが、三十五年を過ぎて、表彰もされた。
 仕事のスピードは落ちたが、経験と知恵はあり、職場でもまだまだ価値がある。
 いぶし銀とは、そういう意味だろう。
 辞書まで引いて、意味を調べたが、もう一つ好きにはなれなかった。人からはそう見られているのだろう。上司の表現には、愛情を感じた。
 おちている百円玉は、いぶし銀のようだ。私自身みたいだ。そう瞬間的に思ったから、ポケットに入れたまま一日を過ごした。もちろん一生懸命に働いた。
 やっと夕方のベルが鳴り、ひやかし半分にケーキ屋に寄った。なじみの店員と会話しながら、カラフルなケーキを眺めた。
「どんなのがよく売れていますか。」
「こちらケーキが春めいてよく出ています。」
 一個、三百五十円の立派なデコレーションだ。
 私は若い店員の誘いを聞きながら、シュークリームに目が行った。黄色のシュークリームは、大きく膨らんで「美味しいですよ。どうぞ。」とそこにある。一個、百円である。今月の九、十、十一日は、その店のシュークリームディで、日頃より十円安くしている。
 私は欲しくなり、じっと眺めて、ふとポケットに手を入れると硬貨があった。朝、道端で拾った百円玉だ。いぶし銀君ではないか。シュークリームは食べたいが、心の通じ合う百円玉では、買いたくない。
 もしこの気持ちを誰かに話したら、何とチマチマしたことで、君は悩み、躊躇しているのかと笑われるであろう。貧しいハムレットなのだ。
 天使が現れた。隣の職場の女性で、今から残業です。腹ごしらえをしなくてはと、ケーキ屋さんのパンを物色している。私が密やかに心を寄せている女性だ。どう考えても、片思いのままである。年が違い過ぎる。フィーリングはなぜか合うから、ずっと想いってきた。寒い冬に、コートに忍ばせるカイロに似ている。想っているだけで、暖かくなる。誘いきれずに来た。
「シュークリームも美味しそうだね。」
「食べたいです。」
 乾坤一擲。いぶし銀君がいなければ、こんな勇気は出なかったろう。
「買ってあげようか。」
「わあ、嬉しい。ありがとうございます。」
 私はポケットの百円玉を取り出し、店員に渡した。ポケットの中でグッと握り締め、「ありがとう。また会おうね。」
と別れを告げた。
 ずっと持っている気になれない。まして財布に入れなおして、家に持ち帰るのはいやだ。パチンコ屋で、ジャランと玉に変えれば、あっと言う間に終わる。
 しかしいぶし銀とは、一期一会の義兄弟ではないか。
 彼女の口に、まもなくシュークリームは頬張られる。「夜業も頑張るぞ。」とお腹に力を入れる。夜業とは、失礼ながら夜の仕事ではない。
 私は手をプラプラさせながら、冷たい風の街を歩いた。日頃より余計に歩き、それから家に帰りたかった。
 今日は良いことがあった。本当はいけない事をしたのだろう。神経質に拡大解釈すれば、ドストエフスキーの「罪と罰」の恐ろしい世界が待っている。でも素晴らしい幸せが訪れ、ブーメランのように去っていった。たった百円のワンコイン・トリップ。でもわくわくするほど楽しい早春の一日であった。

 意外性
お客さまへのサービスは、正攻法で売り進められれば、正しくて楽なのだが、変則的な攻め方もおもしろい。もちろんベースがしっかりできていればの話である。
私がお世話になった教育コンサルタントOは、気難しく筋を通すので有名であった。原理、原則をもとに論理を展開するので、上層部からは人気があった反面、受け手からは硬苦しく思われた。論理思考がいつも根底にあるので、その習慣が乏しい者にとっては苦痛である。
従って受講者も余り寄り付なかったし、本人もそれでよしと思っていた。
私はO氏の講義をお世話することになった。山里離れたホテルは、高級であったが、O氏は既に何泊もされていた。私はある経済紙を持って、事務局に加わった。そのホテルには、新聞が配達されていない。
O氏はおやっと言う表情で、朝刊を受け取られた。そして昼食の時、「ありがとう」と微笑まれた。講義は相変わらず厳格で、数学の授業のように論理で組み立てられていた。
私も必死でメモを取り続けた。と同時にO氏が株が好きなことを例話から知っていた。趣味と実益を兼ねて、株をされていたのである。まだインターネットが普及していない時代であった。O氏は、経済新聞を休み時間に食い入るように見られたであろう。
それからO氏は、私に公私にわたっていろいろなことを教えてくださった。
孫子の兵法に「敵の守らざるところを攻め、攻めざるところを守る」とある。
サービスの提供も同じだ。相手の求めざるところに提供すれば、感動とポイントを贈れる。私は計算して、新聞を持って行ったわけではないが、琴線に触れることなった。
他の事務局員より、O氏のことを思っていたし、好きだったのは確かである。

雑巾
 離れの部屋は、週に一,二回訪れる。調べものをするのが、主な目的であるが、よく読んでいた愛読書に出会うとついつい座り込んで長居をしてしまう。椅子がこれまた懐かしく、座っているだけで色々なことを思い出させる。と言っても部屋は締め切っているから、ほこりが立つというより積もっている。一年ほど前に雑巾を持ち込んで、拭くようになった。ほこりには水分が良いと聞き、雑巾は十分に湿らせて使う。
 すると不思議なもので、椅子に座ると拭きたくなる。正確には拭かなければ座る心地がしなくなった。習慣というものだ。
 しばらくすると、正確には半年後には、その雑巾の手触りがなじんで来た。肝心の調べものは、掃除をしてからでなくては落ち着かない。お目当ての本が出てこないような気さえする。
 雑巾は年季が入り、黒ずみ、角がほつれて来た。昨年末までは、愛嬌程度であったのが、ほつれが破れの範囲にまで来た。ぼろぼろ、元々、雑巾は、ぼろ切れで作るからぼろぼろは本来の意味ではある。私だけしか使わないし、離れは私が殆ど使っているから、誰も知らないはずだ。だから本も含め、好きなようにして良い。まして雑巾など、例えば交差点を渡るのに、右に渡って直進するか、直進して右に渡るかぐらいの判断で容易に決められる。
 春が近づくので、一新するか、本当にぼろぼろになるまで使うかは、簡単に決めて良い。逆にこの程度のことで、時間を取るのは浪費だし、滑稽ですらあろう。私もそれぐらいの事はわかっているつもりだ。
 しかし毎週のように考えた。調べもの、探しものどころか、雑巾をどうするかを考えに、離れの部屋に篭るとさえ思われた。
 私が再雇用の身だから余計にこのことを、真剣かつ深刻に考えこんでいる。一度、定年退職して、同じ職場にありがたくも勤めさせてもらっている。給料は半分以下だが、友達の中は本当に辞めてしまって少しずつ生活に困っている。それを思うとありがたいが、身も心もぼろぼろになりつつある。大げさな言い方だが、それなら辞めたら良かろうという声も心にある。職場にもあるのかと思う。とにかく健康に留意して一日、一日を元気に勤めるように心がけている。
 雑巾は他人事ではない。私自身だ。少なくとも私の心の写しだ。ぼろぼろにならぬようにと祈る。粘れるだけ粘り、役に立ってほしい。元々、雑巾は一通りの役目は終え、第二の勤めを現在進行形である。往年は花、今は小さな花。ゴミやちり相手でも、花を輝かせ、部屋を光らせる。縁の下の力持ちと言わず、表舞台の重要な役割だ。舞台が開くまでの、主人公でさえある。
 春風が窓から吹き込む。私は雑巾をそっとつかみながら、机や椅子を拭き始めた。

桜道
 通勤途上に公園がある。桜が咲き始めると、寄りたくなる。しかし乏しい時間の中で、迂回すると遅刻してしまう。小走り行けば良いと思わぬわけではないが、そうまでしてなど曖昧に考えているうちに、満開と聞く。
 友人の中で、少し落ち込んでいる男性がいる。最愛の妻をなくし、必死で子供を育てている。近頃、風采が上がってきたように見えるから、気分を持ち直していると思われる。なかなか核心に触れきらない。
「元気ですか。」という程度で、「おかげで元気ですよ。」と小声で返ってくる。
彼が公園への道を歩いている。私と違って、会社がその公園から近くにあるのが物理的な理由だろうが、背筋を伸ばして歩いている。
桜を見るためだなあ。毎日、歩いて見ているのだろうなあ。
春の風が吹く。まだ花を散らさないで欲しい。
私自身が、帰りに夜桜を見たいからだ。それ以上に友が幸せそうな姿が嬉しい。




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