007 スカイホール

宮川俊朗


007 スカイホール
      宮川俊朗

007は近頃、全て映画館で観る。中学生時代に「007は殺しの番号」「007 ロシアより愛を込めて」にわくわくした。ショーン・コネリーが格好よく、東西冷戦でスパイが現実に大活躍の時代であった。ボンドガールは美人で、短い時間ながらの007とのベッドシーンは子供ながらに「これが大人の世界か」と目を釘付けにされた。本当は敵のスパイで、007を窮地に追い詰める。ロシアからは愛と言う名の凄腕の女スパイが送りこまれている。007はわかっていながら愛の相手をし、深みにはまる。

私は17歳の時、映画好きの同級生に問いかけた。彼はアメリカからの帰国子弟で、英語がペラペラ、こっそりと「ドクトルジバゴ」の原本を家で読んでいて、できる男だ。
「ゼロ・ゼロ・セブンの今度の作品はもう観た?」
「ダブル・オー・セブンかな」
私は黙っていた。プライドと教養を傷つけられたからだ。
通はダブル・オー・セブンと言うのをその時知った。ボンドはそう呼ばれるが、映画タイトルの正式名は「ダブル・オー・セブン」というのは、余り知られていない。コード番号を3桁にするからには、英国の情報機関は999人のスパイを抱えていることになる。もちろん最大限で、00が付く一桁のコード番号のスパイは、特別に優秀な凄腕の切れ者であろう。006や008の方も観てみたい。

今年は007シリーズの50周年記念とあって、早くから観たいと思っていた。あいにく仕事が立て込んで、封切から1ヶ月半も経った1月の半ばに、小さな劇場で日曜日の朝10時から観た。
それでも007にちなんで、7人ぐらいは来るかなんて、待ち合いの音楽を聴きながら予想していたら、8人になった。みんな大ファンで、眼を釘づけに観ていた。アクション映画はでっかいスクリーンの劇場に限る。「ミッション・インポッシブル」と007は劇場で必ず観て、レンタル屋には行かない。

イスタンブールから活劇は始まる。モスクが立ち並ぶ繁華街で、情報を盗んだスパイを007は追いかける。人ごみを抜けると、屋上に上がり、何と屋根の上をオートバイで逃げ、それを007が追いかける。このシーンだけでも、待っていた甲斐がある。次作は二年後かと思えば、劇場で観るのは今しかない。オートバイから走り逃げて、列車に飛び乗る。トルコの森林を駆け抜ける風景が美しい。特急の屋根で敵スパイと007がもみ合いとなる。次のトンネルを過ぎると、もうよその国か。少なくとも自動車では追いかけられない。

スパイはパソコンで機密を持ち出している。元組織員で裏切った。機密には組織の名簿があり、味方が狙われる。
「撃て」という指示の元に、丘の上から女情報員が撃ち、007の胸に当たる。鉄橋から水に落ちる。危機一髪だ。

007は死んでいない。
「なぜ撃ったのか」
とボスMを責める。
「撃たなきゃ、組織の者がみんなやられる。」
とボスMは、額に皺を寄せながら答える。
 英語が冷徹に響く。
 私は007を何度も観て、英語の勉強をした。学生時代には指定席制度などなく、映画は何度繰り返して観ても良かった。おおらかな時代で、月に二度は足を運んだ。

 逃げたスパイは上海にいる。その機密情報をもとに007は派遣される。落ちた体力や判断力で本当は情報員として失格だが、Mが合格にしてやる。信頼関係からだが、甘い判定にMが上役から責められる。
 007しか発射できない銃。小さなアンテナを立てれば、現在地を知らせることができる機器。この二つが秘密兵器として007に与えられる。初期の作品からは考えられないような小道具で、IT情報化時代を反映している。
 追い込んだ先は、マカオの離島で、日本の軍艦島をロケ地にしている。廃墟だが、カメラアイで美しく芸術的な光景になる。
 ボンドを愛した中国スパイが捕まえられ、頭にガラスコップを載せられる。ウィリアムテルの逸話のように、
「このコップを撃て」
と敵スパイは命じる。
 敵と言っても、元の同僚で痛い仕打ちにあい裏切り、機密を持ち出し、復讐を狙う。
 007の弾は外れ、この逆スパイが女の腹に弾丸を撃ち込む。絶体絶命の中、007は例の位置情報器でヘリコプターを呼ぶ。

 裏切りの幹部は、ロンドンに護送され、箱に閉じ込められて経緯と動機を吐かせられる。
「お母さん」と敵幹部はMを呼ぶ。本当の親子か、愛称なのかは鮮明でない。親子ゆえに対決の展開がすさまじい。
 究極は007の故郷のスコットランドにおいて、裏切りと007たちは対決する。50周年の記念作は、家族をテーマに扱う。肉親と厳しい仕事、運命、対決、撃ち合い。表面はクールで平静に見えるだけに、いったん火を噴けばすさまじい。簡潔な表現とドラマ展開が、ハードボイルドタッチで軽快に進みわくわくする。このままこの世界でずっと観ていたいと思う。
 
 次作もぜひ観たいという思いにさせられて、幕は閉じる。音楽が鳴り響き、出演者名が横文字で紹介される、観客はお目当ての名前を見つけようと目を凝らしている。

ケインズ
英国の経済学者ケインズは、不況時の公共投資理論を確立し、現代の理論経済学では偉大な指導者である。安部総理大臣の進めるアベノミックスも理論的には、ケインズ理論を基礎にしている。そのまま何も手を打たないままでは、ずるずるとデフレ縮小へと後退するばかりだ。そこで公共事業を強力に推し進め、お金の流動性を高めることが、経済を活性化し、国民を明るく楽観的かつ意欲的に行動させる。
ところがケインズ大先生は、大のギャンブル好きで、「確率論」まで著している。いかに賭ければ、高い確率で儲けられるか。当然にリスクの比率も計算した上だが、ケインズは競馬等のギャンブルで大損をし、破産寸前に追い込まれている。
ギャンブル好きはとことんまで賭ける。いくら勝っても、究極には破滅が待っているのは、子供でも知っているギャンブルの掟である。叡智の塊ケインズ博士も、ギャンブルの起承転結は熟知しているが、どうにも止まらないのが人間ケインズであり、ドストエフスキーやフロイドが好奇のまなざしで、ケインズの昼と夜を覗くことになる。
ケインズは経済の神様の領域に迫るとともに、飲んだくれの博打仲間でもある。それが人間、どうしようもない、聡明な人間ケインズだ。家族はどう見ていたのかしら。食うや食わずで、経済学もあったものではなかろう。あるいはどん底にあって夢見るのが、ユートピアの理論経済学かもしれない。マルクスだって極貧であった。同じ境遇で、紳士面してまことしやかに世界の恐慌脱出の糸口を説く。酒を飲まずにできるところが、天才であり、説得力の源泉となる。
酒を飲まずの博打は、迫力があり命がけだ。もう誰も止められない。止めるのは天使の眼差しか、子供の素朴な詰問かだ。理論での説得は難しい。

 魔術
 頭が冴えずどうも調子が出ない時、地下の喫茶店「エスト」にコーヒーを飲みにいく。なじみの店で、何も言わずにおいしい熱いコーヒーがテーブルに出てくる。
 ゆっくりと飲めば、元気が出てくるし、仕事の能率が上がるように思われる。カフェインのせいだし、ひそかに心寄せるウェイトレスさんが、運んできてくれるからだ。
「久しぶりですね。」
という一言が嬉しい。
 忙しい中、お金を払ってでも、足を運びたくなるわけだ。
 ところでたった一杯のコーヒーで心身ともに活性化されるとは、不思議なようで怖い気もする。 試合前のボクサーなんか、何を飲んでいるのかしらと思う。戦うのか、戦わされるのか、紙一重の極限。 栄光に向けた地獄変である。

 




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