藤 圭子

宮川俊朗



 藤圭子さんが、8月22日(木)になくなった。ちょうどその日は、イチローが日米通算4000本安打を放って、球場のファンとともに日米のファンが歓喜した日だ。テレビは藤圭子さんの死を大きく取り上げた。午前7時に新宿の高層マンションから飛び降りたというショッキングな死に方だったからだ。同居していた知人は、7時はまだ眠っていて、気がつかなかったそうだ。わずか1メートルぐらいのベランダの柵を越えて、飛び降りた。片方のスリッパはベランダの中に残り、もう一つは藤さんとともに宙を飛び、地に落ちた。
 13階とは見上げるだけでも、首が痛くなるほどの高さで、自室から見下ろせばぞっとする光景だったにちがいない。朝7時とは、よくよく考えた上での結論で、「5年以上も心を病んでいた」と後で聞くと、影ながらのファンとしては心が痛い。遺書も何も残していないが、「何も言わずに無言」という事が精一杯のメッセージとして伝わる。言いたいことは山ほどおありで、万感の思いで飛び降りた。そんな決死の覚悟が、無残な姿からしのばれる。
 藤さんは余り喋るような歌手ではなかった。テレビ出演の短い時間では、べらべら喋るわけにはいかないが、それでもインタビューの際には重たそうに口を開いていた。短く重い言葉ゆえに、インパクトある言葉は強くファンを魅了した。
 思いは語りではなく、歌によって表現した。昭和40年代はニューフォークが出現し、歌手は歌とともに語りのメッセージで訴え勝負した。平和運動、学生運動の議論や多弁さに影響され、吉田拓郎や井上陽水、泉谷しげるさんたちは、多くの思いを語り歌った。メッセージ・ソングである。ベトナム戦争が激化し、「もはや戦後ではない」日本がいかなる舵取りをするか、国家全体で悩み討論している最中であった。

 それゆえに
赤く咲くのはケシの花 白く咲くのはユリの花
どう咲けばいいのか この私
とひたすら歌う藤さんの声は、デリケートに揺れる心に沁みた。
 歌手は歌に心を託す。歌の中でしか、心を表現しない。議論も解釈も要らない。もし私の気持ちが伝わるなら、レコードを聴いて。そして一緒に歌って!
 藤圭子は、こんなシンプルな思いと哲学で人生を込めてうたう。
「誰が心に傷はなき」
は、フランスの詩人ランボウの若き言葉だ。 
藤さんは岩手県で生まれ、浪曲師の両親に連れられて東北、北海道の各地を転々とした。多くのエピソードが、傷をうかがわせる。
私は九州の博多で生まれ、育ったため、気候とともに気質も甘くあいまいなところがある。藤さんの冷たく、切れの良い雰囲気は、「異邦人」を書いたカミュの別世界を見るようで冷たいロマンティシズムを感じた。それでも毎週、毎週、歌番組にトップで登場だから、目は釘付けされ、いつの間にか歌っていた。ヒット・チャートのトップに15週以上も名を連ねたからだ。この記録は前にも後にもなく、まさに前人未踏ゆえにイチローと日を同じくしたのかもしれない。(これは結果論だ)
十五 十六 十七と私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく

ランボウも傷を抱えながら、夢は夜ひらいたのだろうか。詩にひらいた。
藤圭子さんは旅芸人の子ゆえ、小中学校も満足に行かれていない。お母さんは芸まわりの途中で失明した。
暗かったのは「私の人生」ばかりでなく、お母さんのまぶたであり、「私たちの人生」だった。
目が見えない中で歌う。心で歌う。
芸の旅に同行しながら、藤さんは歌謡道の真髄を覚え、共に歌った。「門前の小僧、習わぬ経を読み」どころか、ともに歌を唄うことでプロの道に入る。もともと寂しく辛い人生を重ねてきたゆえに、そのまま歌になった。
それでいてユーモラスであっけらかんと明るい面も伺われる。
藤圭子の歌詞を多くつくった石坂まさおさんは、新宿育ちで結核を病み、片目は失明し艱難辛苦の半生を送ってきた。その人生は歌になり、藤さんとの出会いで開花した。心と心が一つになり、言葉として表れる。余りに劇的に出会い過ぎたとも言える。しかし運命は手加減をしない。歌のヒット、レコードの空前の売り上げなど幸福は留まるところを知らない。昭和の奇跡である。

私が男になれたなら 私は女を捨てないわ
ネオン暮らしの蝶々にも 優しい言葉はしみたのよ
馬鹿だな 馬鹿だな だまされっちゃって
夜が冷たい 新宿の女

デビュー前は、東北や北海道などの各地で歌い、都会には縁が乏しい。父母の浪曲を手伝いながら、北海道の喉自慢大会で優勝し、手ほどきならぬ歌ほどきで新宿の飲み屋街を案内された。いろいろ聞かずとも、新宿の人がわかり、新宿の女の心を読み、声に託す。
「私は街を歩くと、群衆の心が一人ひとりわかり、感動する」
とは「パリの憂愁」を綴ったボードレールの詩文だ。
 藤圭子さんも新宿をうろつくだけで、心がわかる。悲しみがわかる。「人生の」と言ってよい。普通の歌手は、演歌をうたう。歌を演じてうたう。歌の主人公になり、まるでドラマの役にはまるように詞を歌い、観客の心を揺さぶろうとする。演技であり、演歌であり、別の人生や生活がある。藤圭子の場合、自分の心を翻ってみんなの人生を歌うのだから、隠れようとする裏舞台や生活はない。
 すべてを出し切るゆえに、時代の心として共感を得る。本人は逃げる場はない。誰にも本当はないのだが、スターとしてまぶしいフットライトを浴びるゆえにゆっくりとくつろぐ暮らしは許されない。

 私が男になれたなら
とどんなに仮想の夢をうたっても、男にはなれない。
 そんな無謀な夢ゆえに、ときめきの歌は夜、花ひらく。

 夜更けのさみしいカウンター ポンとビールの栓のように
私を見捨てた 人なのに

藤圭子さんは、前川清さんと幸せな結婚生活に入るが、長続きしない。音楽プロデューサー宇多田さんとも再婚し、天才歌手宇多田ヒカルさんの誕生ともなる。
お母さんが失明し、本人も目の弱りを自覚するゆえに、
「健康な目を持ってほしい。明るい希望を抱いて生きてほしい」
との願いを込めて、ヒカルと命名したとも聞く。
 大江健三郎さんが、わが子の明るい未来を願い、ヒカルと名づけたのに近い。
宇多田ヒカルは、ニューヨークでの英才教育とともに両親から受け継いだ天才的な音楽資質で、驚異的なCDヒットを出す。今までにない斬新な歌詞とメロディは、さわやかでときめきの世界を歌う。まったく関係がなさそうで、そこから独立したい、藤圭子のメロディは、裏隠れしながら低層音と響く。

しかしポンと見捨てられる栓のような運命を、二十歳で予言者のようにうたったからには引き下がれない。単に「捨てる」だけでなく、「見捨てる」とは、相手の気持ちをわかった上で演じる行為だけに残酷であり、ずっしりこたえる。
歌の影がいつもついてきて、影の中に住んでしまう。あの美声はどこに行ったのかしら。ハスキーでドスの利いた声、相矛盾しながら同居し、交互に発生する神秘的な歌声は、今も心から喉へと生み出されるのだろうが、

それでもすがった すがってた
との歩みは、単に楽しく歌う自分を拒んでしまう。
 「すがってた」とは、すがり続けたという意味である。
 歌が藤さんの運命を決定し、歩ませた。
 それからはファンの期待とは別に舞台にもテレビにも余り顔を出していない。
10年前に同じく悲しい時代の歌を唄った、西田幸子は幸せな結婚生活を送っている。藤圭子さんはそれができなかったし、平凡な幸せは好きになれなかったにちがいない。

美神は運命をつくる
という小林秀雄のつぶやきがある。
 音楽の美神もだ。
自分の抱いた理想の美しい世界に向かって、人は努力し協力しながら生きていく。あるいは自分の来るべき運命を予感しつつ、理想の美しい世界を構築する。絵であれ、言葉であれ、お金持ちや名誉を得るプランであれ、自分の道は自分で創り歩く。藤圭子さんは、大ヒットした歌の数々により、美しい神は胸に宿され自信を深める。

きのうマー坊 今日トミー 明日はジョージかケン坊か
恋ははかなく過ぎてゆき 夢は夜ひらく

と恋の遍歴は華麗にしてドラマティックな演歌調となる。恋が歌になる、歌の通りに恋をする、恋なしでは生きていられない。それは幸せでも、恋に良いものと悪いものがあり、好意的に見積もっても半々だろう。捨てる恋もあれば、拾う恋もあり、当然に捨てられる恋もある。それはもう恋なんて言えないのかもしれないが、やっぱり恋なしの人生なんて寂しすぎる。
 天性の歌唱力を持った人ゆえの美し過ぎる夢であり、恋のグランドはニューヨークへと展開する。愛娘ヒカルさんの大ヒットは、まるでロト6やロト7を10回当てたような大金が転がり込むようになったが、大切な家族の崩壊を招くことにもなった。
 マージャンや競馬などのギャンブルは、気晴らしの大好きな遊びであった。ラスベガスでの華々しい賭けは伝説にある。賭けというより、賭けられたのかもしれない。苦悩の小説家ドストエフスキーもルーレットなどの賭けが好きであった。近代経済学者のケインズは、経済理論構築とともに、ありったけの金を競馬で費やし、スッテンテンになった。いずれの天才も藤圭子さんと同じく、六十歳とあと少しでなくなっている。
 才能と巨額のお金が、家族関係を複雑にし、葛藤の中で悲しみが増す。失明の恐れと心の病が進んだとも、週刊誌は報じている。巨額と眩しいフットライトに飾られたパラダイスは、地獄のぬかるみを暗示し、早すぎる「心の晩年」を招いた。「晩年」を書いた太宰治さえ、たじろぐような虚無の晩年であったろう。
 西新宿で同居していた知人は、旅の歌姫が心安らぐように闘病の助けをされたことだろう。目の前は分厚いコンクリートの庭、そのコンクリート地獄へと「新宿の女」は飛び込む。
 ご冥福を祈る。

三浦雄一郎さん
 三浦さんが満80歳の記念すべき年に、エベレスト(8848m)に登頂した。低酸素室で様々な訓練をしてからの挑戦で、気力、体力とお金があってこその快挙である。
 チャレンジとリスクは裏腹で、高山で一歩誤れば、奈落の底である。努力とプラス思考の楽観主義と用心で、安全管理を考える上でも模範とすべき快挙である。成功と失敗は紙一重であり、自然と自分の体力、気力をよく知った上での登頂であった。孫子の言う「己を知り、敵を知らば百戦戦うも危うからず」を実践された。敵とすべき自然や高年齢等の条件も、味方につけて一歩、一歩の前進であったろう。
 80歳とエベレストの8が多い高さ(8848m)も馬が合っている。最初で最後のエージ・シュートは素晴らしい。

 意外な言葉
 モーツアルト「私は天才だ、神童だと言われているが、誰よりも毎日、努力を続けている。」
 黒澤明監督「物事を鋭くとらえるよりも、明るく健康的にありがたく感謝しつつ、映画つくりを行っている。」
 黒澤監督は神経質に見えるが、健康的で楽観的な生き方を目指していたのが伺える。




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