パスカル(P)について

宮川俊朗



 できるのに悪徳の人、品行が良いのに人気がでない人。
 自分の内面だけに、品行が良い場合は、社会への影響力が乏しい。大人しくて内向しているように見え、付き合いが狭く限られて来る。

 パンセ104章
 義務を忘れずに行うには、別の義務を思い浮かべることだ。情念ばかりだと、義務にまで思いつかない。
 人間は情念に流れやすいのか。勉学しなければ、情念が主体の生活を営むことになる。それが殆どの人間の生き様ならば、食べるための社会生活、共同生活を送るには、情念が大事になる。相手が情念による思考ならば、つまり「まず自分の情念があり、しかるのちにそれを証明し、妥当化するための思考を取るならば」本当の思考には辿りつけない。
 人はPほど頭もよくないし、瞑想する時間を持たない。ゆっくり考えるという経済的なゆとりは乏しい。学生は勉強し、社会人は働かなければいけない。社会は慣習や習慣がいっぱいで運営されており、一から考えるには余りに巨大で、複雑になっている。
 だから一生を考え、信仰に費やしたPは貴重であり、奇跡に近い。ゆえにその証としての「パンセ」を読む。人類が到達した知的な最高峰の一つである。だから日本でも芥川龍之介、太宰治、小林秀雄といった知識人たちが、パスカルを愛読する。パスカルの世界に入り、守破離ことで独自に道を切り開ける。

 Pは出版を目指して「パンセ」を著したわけではない。目指してはいただろうが、道半ばで止めた。シューベルトの「未完成」と同じく、純にして不完全というよりきらめく思考断片の軌跡であり、集積である。
「信仰への道」として、日々、思考のメモを綴った。あるフランス人が、断片録を並べ直してから、一気に読者が増えた。別の並べ直し方、編集方法はたくさんある。「無限の回数ある」と言っても、過言ではない。そのためには、何度も繰り返し読む必要がある。パスカルへの敬意、畏敬に基づく愛読が、新たな編集方法を生み出す。
 ただし第1章を「繊細の精神と合理的な精神」とした位置づけは、全巻を制する。この二つの精神こそ、「パンセ」の根幹であり、パスカルが信仰のために世界を考える礎である。
 どの章もこの二つの精神から成り立つ。これらの精神に立ち返ろうと試みるので、思考の深層において二つの精神が表れる。繊細の精神と情念との関係は、これまた微妙で、冷静に分離できるものではない。
「心は体のどこにあるのか」
と1章、設けるほどに、定義は難しい。
 それゆえに言葉の定義に挑むことこそ、哲学の始まりであり原点である。

「哲学を馬鹿にすることこそ哲学の始まりである」
とは、当り前の章に見えるが、「馬鹿にする」まで踏み込むには大変な労力と「本物を見極めたい」とする情熱が求められる。
権威ある考え方に対しては、「そんなものか」と安易に妥協しやすい。凡人は批判することはできても、「私の考え方はこのようだ。」と体系立てるのは骨が折れる。そもそもオリジナルな思想体系が、人生を生きていく上で必須だとは思いにくい。たとえ思っても自力で創るのは、余程、時間がなければ難しい。時間ができても、例の情念により、好きなように思い行動してしまう。
 
「できれば神なしで、考えたい」とするデカルト
「もう死にたい、自殺したい」とするモンテーニュ
 パスカルは「パンセ」の中で、モンテーニュには厳しい。それ程、二人の本はしっかりと読み、考えたのであり、究極には二人の偉人を「馬鹿にした」のである。馬鹿にしなければ、独自の哲学は構築できない。馬鹿にしてこそ、自分が見える。
 パスカルは繊細で温厚な風貌に見えて、性格は激しくアナーキーである。

 パスカルの文体は、ナポレオンに似ている。
 私はフランス語の原文を読めないが、多くの批評家が、文体の酷似を指摘する。
「生きるか、死ぬか」
とハムレットの突き詰め方を、二人ながらに行った。
 二人の交渉はない。
 江戸時代の初め、17世紀に生きたパスカルは、病気がちであり、近くの修道院に赴く以外は家にいた。今で言う不登校かもしれないが、「人生と何か」を究めようとすれば、諸々の事に時間とエネルギーを費やすわけには行かない。哲学のプロの誕生である。時間とお金がたらふくなければ、哲学者になれない。カミソリの両刃と同じく、哲学者は閑人であり、危険と裏腹である。
「生きるか、死ぬか」も一歩、間違えれば、「死ぬ」を選択してしまう。
「死にいたる病」などは、偶然でなく、哲学者が通りやすい道であり、一寸先は闇の道である。本格的に乗り越えきらなければ、影が追いかける。

 戦いに勝つか、負けるか
 必死で考えるナポレオンは、パスカルの著作に学び、思想を確立した。覚悟を決めたと言っても良い。
 ナポレオン言行録も断片から成り立つ。日記風のメモは、一日の総括であり、一日は人生の断片にして全て、未完成にして全容を現す。戦いながら、書くことはできない。戦った後の夜か、早朝に総括としてのメモを綴る。

 思考の岐路。
 点から線へ、線から面へ、時には点から面へ。
 逆に面のことを線で表現する、極端には面を点で表現しようと試みる。
 これが短文で真理を捉えようとする、パスカルの手法だ。
「今日は時間がないので、短い文は書けません」
とするパスカルの手紙は、「時間をかけて短文を創ろう」と努める。
 短文にこそ思いの全てを表現できる。
 松尾芭蕉が、五七五の俳句に自然と思いと人生の全てを表現しようと試みたように、パスカルは短文の断片に思想を込める。そこまで突き詰めないと、思想は完成しない。

105章
 「幸福論」の中心をなすもの。情念の大きな目標は、幸福であるが、その人の幸福の根幹を成す要素は、矛盾し、バッティングする場合がある。それ故にその人に対して幸福に導こうと努めるのは、矛盾の解決、克服を要して困難となる。

言葉
 先輩が、六本松バス停でタバコをすいながら待っている。
私がバスを降りて歩き出すのを見つけて
「どこまでも、どこまでも歩いてゆくね」
と笑顔で語りかけた。
 山頭火の
「どこまでも、どこまでも青い山」
の句を思い出す。
 短い文字に絞って、思いを語る若いコピーライターだ。

 犬の散歩ですれ違う女性に、歩道を譲ると
「君はどこの子かね。親はどこかね」
と語りかける。
 勤め帰りの道で、家族のことを考えながら、わが犬に話した。
「ご家族は遠くにいらっしゃるのかな」と想像しつつ、「どうも」と挨拶して道を別れた。

 杜甫
 李白の弟子にして、李白、白楽天を尊敬しつつ、詩作に励む。即興の才能に恵まれるが、作品に対し最低三日間の推敲をかけ、物心ともに集中して作品を完成させる。
杜甫の詩にある「人生七十 古来稀なり」から、七十歳を古希と呼ぶようになった。この詩を創った時は、まだ四十八歳であった。
心が折れそうになり
「どうせ生きても、せいぜい七十歳までではないか。くよくよ考えずに、みんなで楽しく酒を飲もうか」
という呼びかけの中に、古希という名言が生まれる。
 推敲の賜物である。単なる飲んべいではないのは勿論だが、単なる誇り高き孤高の詩人でもない。両方を備え持ち、冷静にして愉快、笑いつつ知恵者。ただの男とわきまえながら、高踏の詩に挑み高みを目指す。

 周りの人たちを気遣うより、自分を心配する。どんな組織や集団に居ても、自分が大事だ。特にピンチの折は、自分自身としっかり向き合わなければ、潰れてしまう。誰よりも自分のことは、自分が最もよく知っている。女房、父母、子ども、親友、そして恋人は、よく知りわかってくれるだろうが、あくまでも一部分であり、遠い過去の私に対して知っているだけだ。
 重苦しい状況だから、軽く楽しい場面やもてなしてくれる相手へと逃げ出したくなる。しかし影が追いかける。なぜなら色々細工を凝らしている自分の心は、自分が一番よく知っている。心は自分の心から逃げられない。じっくりと一歩、一歩確かめるように自分の心を解きほぐし、次なる歩みを考える。
 
衛生学
ラ・ロシュフーコーは
「人は太陽と死を長く見続けることはできない。危険だ。」
と説いている。
 死はギラギラ輝く太陽とまったく逆の闇だ。急激に両者を見詰めれば、目がクラクラする。

 豊田泰光さんの思い出
 講演会に出席していただくために、空港まで豊田泰光さんを迎えに行った。
 十九歳で故郷の水戸から、博多のプロ野球球団に請われてやってきた。藤崎に住んだ時は、刑務所の慰問を欠かさなかった。
地域貢献にと思い、黙々と清掃をやっていたら、町内会長から
「月に一度で良いから、刑務所で食事をしてもらえないだろうか。」
と頼まれる。
 刑務所長と町内会長と豊田さんの三人で、洋風のフルコースを口にする。分厚いステーキが用意される。周りにも数人の方が、同じご馳走を黙々食べていらっしゃる。
 翌月は別の人たちに変わっている。
「私たちと昼食を共にした翌日は、処刑されていたのですね。そう気がついた時はぞっとして、もう会食は止めようかと思ったよ。でもプロ野球選手と最後の食事をしたいと、あの人たちは願っていると聞いて、掃除と会食は、五年間ずっとやりましたよ。二十歳ぐらいで末期の瞬間をともにするのだ。一期一会は骨身にしみました。野球と同じくらい必死でがんばりましたね。」
 豊田さんは、会場までのタクシーの中で、言葉を噛み締めながら語ってくださった。

 思索
 久しぶりにドストエフスキーを読む。
 家族の一人が病気になり、入退院を繰り返す中では、本など読む気になれなかった。朝から晩まで働いている身、お見舞いに行くので精一杯である。
 かすかに余裕ができて「罪と罰」を手にすれば、現実と深層心理の葛藤が明晰に書かれている。とりわけラスコーリニコフ自身の深層心理から、刑事や秘密探偵たちの深層心理を推察し、そこから現実生活に立ち返るとともに将来を予測する流れは、まさに推理小説を読むようでワクワクさせられる。
 心理は深層にして多層であり、多人格から多方面へと心理が働き揺れる。
 人は年齢とともに、時代、環境(政治、経済、科学、技術、医療等)の変化に応じて、多方面に生きて行かざるを得ない。対応するので精一杯となり、もし怠れば命の綱が切れてしまうのではないかと恐れる。
 だから青年時代の純粋さなんかとても難しく、夢を失ってしまうと笑いたくなるほど、人生には宿題が多い。コツコツ解く人は、成功するのだろうね。
 純粋は勿論、単純、単細胞でいることだって難しい。そこである一つのテーマに絞っての短編小説なら、何とかできそうな希望が湧いて来る。逆にテーマを複雑にして流動化させ、しかも客観的かつ主観も入れた作り話なんて至難の業だ。それができのが、今、読んでいるドストエフスキーだから、天才かつ悩める人たちへの奉仕かつ助言者である。
 
シンプルなモデル(一種の対応マニュアル)がれっきと存在すれば、それに基づき各人が主観を重んじつつ、臨機応変に行動できる。深層心理の仮説は、複雑化する時代の要請であり、ドストエフスキーとフロイド、そしてキルケゴールやニイチェが互いに何の交渉もないまま、自らの心と体験を元に探求を続けた。
働く者、実務者は目標の達成に血眼である。そこで夜から朝、ゴールデンウィークのような長期休暇の際、眠りそうでなかなか眠らない深層心理に対し、ありありと眼前にさらけ出し本格的な思索に励み、遊びつつも没頭できる。
久しぶりのドストエフスキーに感心しながら心と時について考えてみる。

 近所
 質素なお嬢さんが近所に住んでいる。二階のベランダから、彼女が近くの駐車場に向かう姿を朝夕に見ることがある。犬の散歩をすれば、黒いスーツ姿の彼女とはすれ違うことができる。以前は目礼程度で、「近所の方だから」という渋々感が漂っていた。新入社員だから、シャイなのは当たり前かもしれない。
 彼女の祖母は働き者であった。芸者で売れっ子だったとも噂に聞く。躓いて骨折し、デイサービスの介護施設でお世話を受けている。祖母と父との三人暮らしで、働いたお金と祖母の年金で、一家はやっと暮らしている。詳しく尋ねれば、涙を誘う物語が待っていそうだ。
 お嬢さんは体から溢れるエネルギーにばりばりの営業ウーマンを思わせる。優しさは目元に現れる。その涼しくも愛らしい眼と挨拶をしようと、時間に遅れずに散歩に出ていた。
 ある晩春の夕暮れ、駐車場に優しそうな男と立ち話をし、それから二人が待つ家へと向かった。婚約でもしたのかしら。映画で見るような素敵なカップルは、父親と何を話したのかしら。
 しばらくして駐車場から車でどこかに行ってしまった。父さんやおばあさんの介護ばかりしてはいられないだろう。その気持ちはわかるが、大胆に決断し行動した。あっぱれさと残された者の哀れさ。仕送りでもするのかな。お父さんに会ったら尋ねてみたい気がする。向こうから喋るまで、待っている方が良いのかなとも思う。

 コンビニ娘
 街のコンビニで涼しい目をしたアルバイト女性に出会う。
 彼女と話したくて、足しげく店に通う。
 純情そうに見えて、お金持ちの愛人ではないかと、苦しい中に変な夢を見る。
「介護士の試験勉強中」
と聞き出せば、生死をさまようような方のお世話など難しいよ、止めた方が良いとアドバイスしたくなる。自分が介護の身になるなら、この純情なお嬢さんの世話になりたいななんて、遠い先を考えてしまう。
 まだ社会でしっかり働ける身だ。63年間の半生を、この際、太宰治の「東京八景」や「富岳百景」みたいに、じっくり振り返ってみようか。それともエロ、グロ、ナンセンスは排除して、志賀直哉のようにシンプルで明快な文章で綴ってみようか。ニヒリズムを克服できれば、人生賛歌の作品を創れる。
 明るいコンビニ娘をちらりと見ながら、自分の現在、過去、未来をまとめてみたい。

最強の二人
原題は「アンタッチャブル」で、普通に訳せば触れてはいけないもの、常識外の無法地帯だが、「最強の二人」との映画名はおしゃれで思わせぶりだ。大金持ちの身体障害者と前科のある貧しい黒人の若者が、タッグを組んで人生を切り開く。
車椅子のブルジョアは、湯水のようにお金を使って介護を頼むが、思うように尽くしてもらえずイライラして怒りでいっぱいだ。介護する側は仕事として、お金のために世話をするが、気遣いが足らない。
黒人の青年は粗野で荒々しいが、寂しがりやのお金持ちの琴線に触れ、時には激しく議論し、ののしり合いながらも親友になっていく。
雪の降り積もるパリの街中での車椅子での散歩、雪合戦、高速道路をハイスピードで駆け抜け、憧れのアルプスで飛行船を楽しむ。景色が素晴らしい。
青年は実は高所恐怖症で
「早く降ろしてくれ。」
と大声で叫ぶのを、元スポーツマンは
「ゆっくり楽しめよ。」
と笑いながら、隣りの飛行船からエールを贈る。
 
前科者で言えば、このたび文化勲章をもらわれた高倉健さんが
「私は出演した250本の半分以上を、前科者の役で過ごしましたが、こんな章をいただいて光栄です。」
とはにかんで話しているのを思い出す。
 高度な身体障害者のお金持ちに対し、親友がおしゃれなカフェーで
「君を介護している男は、前科者だから付き合うのは止めろ。」
と親切そうにアドバイスする。
 前科者も身障者もハンディを引きずりながら、逆風の中を前向きに生きようとする。
 心優しきお金持ちがやっとの思いで、文通の彼女と海辺のカフェーで逢うことに漕ぎつける。同じく心優しく貧しい青年は、車でそのカフェーまで連れて行き、静かに身を引く。
 お金持ちとおしゃれでインテリの彼女こそ、素敵なカップルで新しい最強の二人となる。何かあったら青年は出て行くつもりで、そっと見守る。

 ドラゴン・タトウ―の女
 美しい都市や自然の中で、シャープで切れの良く悲しい映画だ。主人公の女性は貧しく非行歴があり、少女院で長く暮らす。ところが才能と行動力は抜群で、情報探偵社の凄腕として、困難な事件を切り崩し解決していく。
 女主人公は、世界的なベストセラー「ミレニアム」の小説からピックアップされた人物だ。私は原作を読んでいないが、相当に脚色され、ドラゴン・タトウ―の女(龍の刺青の女)になっていると聞く。
 秘密情報の探索と事件解決で実績を上げるが、悲しい過去がつきまとい、いじわるな上司から虐待を受ける。この場面だけ見れば、まるでSM映画だ。女は上司に仕返しをし、マゾヒズムからサディズムへと攻守を変え、打撃を与える。
 仕事に戻れば、美しいスウェーデンの山々を列車で旅し、オートバイで現場へ爆進する。やっと事件解決しながら、年上の男に振られる。妻子のある男だから土台、無理だが、クリスマスイブに家族の幸せそうな姿を見せつけられ、心を込めて持っていったプレゼントを道端に投げ捨てる。
 震える背中を、カメラがそっと追いかける。



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