爪と目

宮川俊朗



 第149回芥川賞・藤野可織さんの「爪と目」を読む。若い女性の小説なので、「わかるかな」という思いがしていた。
 瀬戸内寂聴さんがテレビ・インタビューで
「現代の小説、特に海外のものを読んでいますね。」
と答えていたのに、刺激された。
 瀬戸内さんぐらいの大家になると、源氏物語や枕草子のような古典ばかり読んでおられると推察していた。教養の基礎として既に多くを読んでいるが、新しいものにチャレンジする心意気を素晴らしいと感じた。
 そこで今年は、出来立てほっかほかの「爪と目」を読んだ。
 繊細な女性の感性はみずみずしい。と同時にきらりと光る鋭い歯のようなものが文章の表裏に美しく現れる。父が再婚した娘の手記である。娘といってもまだ三歳である。三歳の娘が、新しく同居するようになった父の妻を「あなた」と呼ぶ。読者はこの「あなた」という表現に戸惑う。実際の主人公はまるで無口で、父の妻、即ち義母とはほとんど会話がない。ただ見詰めるだけで、いやなことをされると爪を噛むというストーリーである。
 筆者は「あなた」と第2人称で表現することで、心ゆくまで書けるポジションを得たと後記で述べている。読者はその表現に戸惑うが、父の妻、即ちあなたが我が家に入ってきて、何をしたかをこまめにレポートし、感想を述べているのがわかってくる。15ページまで読めば、最後まで読みたくなる。読まなければ気がすまない。ついに事件が発生し、その顛末及び弁明を「あなた」への手記として表しているのがわかる。その過程がスリリングで、意外な展開になるので、「美しいホラー小説」と芥川賞受賞の冠にある。
 文章が詩的で美しいだけに、どきっとする内容で物語は展開する。主人公が二十歳ぐらいになった時に、三歳時の「父の妻と格闘」を時系列的に振り返る。「あなた」のわがままで遠慮なしの行動を静かに受け入れつつ、目はぎょろぎょろ光らせ、爪をばりばりと噛む。父と「父の妻」との情事。「父の妻」が母を追い出したばかりか、死に追いやったのではないか。事故死か殺人か。主人公は後者だと決めつけ、その罪を追い込んでゆく。父は新妻と子どもをつくりたい。
うまく最後までいけない。
 父の抽象的な表現を三歳の子どもがわかるという設定がすごい。情事の場をつぶさに見ている。あるいは二十歳になって、当時のマンションでのありようを想像し直す。AV映画のカメラの目である。
父はうまく最後までいけずに、別の女をつくり、自信を回復する。そのわがままな様を知り、自分も負けまいと、男をつくる。古本屋を経営する男性で、父の妻より少し年上だが、ジーパンをはいて学生風である。その交わりで心のバランスを保つのだが、主人公の三歳児は悪行をしっかり見ている。父も別の愛人が外にいるから、見て見ぬ振りをしている。あるいは女の方だけ感じていて、男はわからないのかもしれない。
「母親はだませても、娘はちゃんとわかっている。」
と追加のコメントがある。
 大人のコメント・批評は、作者が成人してからの手記であることを伺わせる。あるいは子どもだから漠然としかつかめなかった事実を、大人になって丹念に、まるで秘密探偵のように探っていく時に細かい点とその背景、心理状態がわかるのであろう。
 父の妻は、学生風の「古本屋」と疎遠になり、彼は暴力をふるって取り戻そうとする。大切なコンタクト・レンズを舌で外され、首辺りで粉々に割れて出血する。もう何も見えない状態で、幼稚園に娘を迎えにゆく。初めてそこで手を握る。今まではまるで赤の他人のようにそれぞれで歩いていた。彼女は手を握ってもらわないと、見えなくて歩けない。
 自宅のマンションに着いて、三歳児の反撃が始まる。積もり積もった怨念をここぞと力に変えて、殴る、蹴る、体の上にまたがる。
 それからは、「羅生門」の顛末のように不明である。筆を置いたからである。
「あとはみんな同じ」
というせりふが強烈だ。
 この言葉のために、80ページの中編小説を著したように伺える。「土佐日記」が最終章のために、全日記を綴ったように構造的であり、立体的だ。創作のため神経がシステムとして細やかに行き届いている。
 私は何度か、勘所を読み直して感動を新たにした。

 桜木志乃さんの直木賞「ホテルローヤル」はおもしろく読んだ。様々な人間関係が、山の上のローヤルホテルで営まれる。高校の先生と女子生徒、アダルトグッズを販売する営業マンと女主人、狭い借家住まいの夫婦が、月に一度だけ訪れては大声を出す悦び。お寺のおかみさんが檀家の方と関係を持ってお布施をいただくお勤め。
 明るく元気な裸の人間模様が時にはユーモラスに、時には涙を誘う。
 桜木さんは釧路在住の主婦で、家族でモーテルを経営していた実体験をもとに小説を書いた。筆力が力強く大胆にして、繊細で優しい。7つの章を超えて、登場人物が往ったり来たりするから、もうじきかしらと想像しながら読めておもしろい。

 ホテルローヤル
 直木賞の「ホテルローヤル」180ページをおもしろく読んだ。様々な人間関係が、山の上のホテルで営まれる。高校の先生と女子生徒、アダルトグッズを持って来る営業マンと女主人のひと時、狭い借家生活の二人が、月に一度だけ、ホテルローヤルを利用し、ここぞとばかり大声をあげる悦び、お寺のおかみさんが檀家の旦那衆にお布施と称して体を許す営みと明るく元気な裸同士の人間模様が、時には切なく涙を誘う。
 筆者は実際に釧路でモーテルを営み、しかも家族とともに住み込みで仕事の手伝いを行ったという。その生々しい体験が、人間の根底にある欲望とギリギリに生きようとする根性に触れ、自然に筆が動いた。何度も書き直し編集し直して、ユーモラスな傑作となった。自分史であり、体験ドキュメントであり、夢になった物語である。
 長編小説ながら筋のからみと飛躍がおもしろく、もっと次を読みたくなる。

小さな職場
25.9.9 皮肉な気持ち
 逆説は真実に近いか。ゴールが近づくにつれ、疲れがたまり、何もかも投げ出してしまいたくなるような爆発に似た気持ちがわく。本当は一歩、一歩と嬉しいゴールに迫るのであろうが、「終わりが近い」わびしさと「こんなことして何になる」というむなしさがわく。笑顔でにこにこと過ごしたいのだが、心の葛藤は激しさを増す。困ったものだし、深刻だ。みんなが通る道、これから通る道だろう。

 25.9.10 心の葛藤
 本当のゴールは、その当日である。あと1時間、そして1分の時刻だ。
「休暇がたくさんあるので、休んでほしい」
と言われると、急にブレーキが入ったみたいで戸惑い、ペースを狂わす。
 最終月などでまとめて休暇を取られるのは、職場としても困るのは、よくわかる。約50日を残り11ヶ月で取り終えようとするなら、月に4日、週に1日のペースで休んでいかねばならぬ。会社の運営方針ならば従わざるを得ないが、休みが多くなると今まで勤勉でやってきた者には、初めての経験、未知の世界への突入となる。
 もしも病気などして休暇が必要となる場合もあるし、数年前は1ヶ月半ぐらい休んだこともある。だから休暇は温存しておきたい。歩きながら思案のしどころである。
 それからは全て休暇、「毎日が日曜日」の状況に入る。その事前練習にもなるが、今は勤めきるのが最大のテーマだ。じっくり考え、協調して行動する。

 「好きは無私」とは、言い得て妙である。好きには理由はない。異性を好きになるのに理由はなく、「本当に好き」、「心から好き」と絶対の心から出た本音である。「なぜか」と言われても窮する。「あなたも好きなものがあるでしょう」と返してみる。

 アコーディオンのジャバラを大きく開いた一齣のような、選ばれた偶然の瞬間、一日、ときめきの出会いが人生にある。ぱあと大きく開いて、素敵な音楽が奏でられるようにときめきの瞬間がやってくる。ランボウの歌う「陶酔の時」というやつか。

25.9.21 役割
 少人数の職場だから、そこに居ることがガードマンの任務のように大事である。よくよくわかっているが、野球で一塁ランナーがスルスルと盗塁をしたくなるように、微かなチャンスを狙って席を外したい。どこに行くのでもなく、席を外す、即ち短時間のサボりを敢行するのが好きである。大勢の人がいれば、堂々と「Aへ行ってきます。」と宣言し、半時間でも外せる。たった5分や10分をハラハラ、ドキドキしながら盗塁を試みるなんて我ながらどうかしていると思う。
 万が一、相手が早々に帰ってくれば
「どこに行っていたの」
と言われる前に
「お客様が来ました」とか「トイレに行っていました」などと見え透いた嘘を言わなければならない。万が一どころか、十回に三回は、予想以上に相手が先に職場へ戻るから、弁明に努めねばならない。じっとしていれば、何にもしないならそれ自体で休憩だし、遊びだろうにと思わないでもない。多くの人がそういう気分転換しているし、彼が帰ってきてから「ちょっと席を外します」と言えば、倍に楽しめる。
 わかっていながら、見つかるかも知れないというスリルと時間の読みにぞくぞく興奮する。なまじっか立読みなどを始めると、ついつい時間を忘れてアウトになりやすい。
「気になる本がありましたので」
と本当の罪を、先手を打って語るのは自尊心がチクチクと傷つく。
そんな大事な自尊心なんて、ちょっとしたサボりには無縁なのだが、抵抗してしまう。一度、あやまてば反省するのが、常識。そこをスルスル抜けるのがおもしろくてまたまた罪を犯してしまう。
 小さな悪事の後は、なぜか気分が乗って良い仕事ができる。

25.9.26 仕事の価値と意味
 その週の報告書を書こうとして
「何もないでしょう。」
と上司から言われるとがっくりする。
 上司が翌週の月曜日に、定例会議で業務報告をするための書類だ。
 上司はバリバリのやり手であった。部下が大勢いて、難しい仕事をたくさんやらせこなした。自ら夜遅くまで仕事をしては、残っていた部下を酒飲みに連れて行ってねぎらい、はっぱをかけた。休日も仕事をいとわなかった。
 当時に比べたら、仕事は質量ともに5分の1程度で、部下は私一人になってしまった。
「余りないでしょう。」
と言いたいところを、強くデフォルメして「何も」と表現する。
私は上司が会議で恥をかかぬよう、質の上で価値ある仕事をしていると報告書つくりに汗と知恵を絞る。
 その労苦をわかってくれているとは思いつつ、「何もないでしょう」としばしば言われると胸に刺さる。

25.10.2 黒いビニール袋をもらって
 ドラッグストアに買い物に行く。滅多にその店には行かないし、生理用品なので「どのコーナーに置いてあるか」と尋ねるのも気が引ける。やっと見つけて、レジの所に行けば度の強い眼鏡をかけた女性が手を差し出す。
 レジを軽快に打ち、袋に入れて笑顔で渡してくれた。
 黒いビニール袋に商品はある。透明なビニール袋に慣れているので、一瞬戸惑った。
 優しそうな女性は
「割引券です。あすから1週間、使えます。」
と手渡ししてくれた。
 別にいけないものを買うわけでもないが、生理関係だと恥ずかしい心理が働いてしまう。そこをさりげなく、当たり前の商品として取り扱ってくれるのはさすがプロだ。
 翌日、ペットボトルの水を買いにゆくと、どこにもあるような透明なビニール袋で包んでくれた。
「昨日は、黒い袋でしたよ。」と問いかけると
「生理用品などは、見られないように黒にしています。」
と淡々と説明してくれた。
 切れがよく、あっさりした俳句を贈ってもらったように、すがすがしい気持ちがした。

25.10.7 カフェインの威力
 おもしろい小説を休日に読むと、余韻が強い。ブルーな月曜日が、余計にブルーになる。小説の夢と現実の仕事との落差が大きすぎて、目が回りそうだ。まずは格好からと、姿勢を正して仕事に取り組む。

 モーニング・コーヒーが癖になり、飲んでから仕事が心身の習性となる。インスタント・コーヒーながら、ブレンドの味と香りが素敵で、もう五年間も同じ会社の製品を愛用している。
 月曜日の今日は、お客様が11時みえてコーヒーを出すことにしている。普段の日は10時に飲むのだが、午前1杯、午後1杯と決めているので、11時まで1時間、待つ。カフェインの香りが待ち遠しく、ストイックな決め事なんて止めてしまおうかと迷う。
「美味しいコーヒーをお願いします。」
とのリクエストにご相伴して、すするコーヒーが恋人との久し振りのキッスみたいにときめく。ささやかな幸せの時である。
 インスタント君は、ヘミングウェイの愛したキリマンジェロのコーヒーに負けない。

コーヒーを飲めば魔法のごとく、頭のエンジンがブルルン、ブルルンとかかる。それは嬉しいことだが、月曜日のブルーな気分はどこに行ったのかしら。そしてたった小さじ1杯の粉末で快く活性化するとは、覚醒剤ではないにしろ恐ろしくもある。
芥川龍之介が「コーヒーは悪魔がくれた贈り物」と言った意味が少しわかる。創作に行き詰った時など、お洒落な喫茶店でコーヒーを楽しんでいたのかと推察される。

25.10.11
 昼休み中に買い物をしたくて、近くの店に昼食を取りにゆく。自分のことなら効率的な時間の使い方で当たり前であるが、同伴者がいると別の問題になる。ある美味しいものを食べようと店を選ぶより、買い物のために手前のレストランを選ぶ。昼休み時間は限られており、遅刻はしたくない。しかし食の好みは人それぞれだし、自由時間だ。
「今日はうどんで良いですか」
「今日は天ぷら定食にしましょうか」
と確認するかのように、同伴者に尋ねる。
「カメラ屋に行かれたいんだな。」
と次の行程を推察しながら、にこやかに同意する。
 一緒に飯を食うのは、30分やそこらだ。
 もし断れば、昼からの仕事が厳しくなり、小言が増える。従順に同じ箸を動かせば、柔らかくなる。昼飯も営業の一つと思えば、気が楽だし、「よく休み時間までできるね。」と事情を知った仲間から冷やかされる。
 寂しがりやなんだ。一人で昼飯を食べるのを見られたくなくて、同伴を誘う。わかった上で、お付き合いすれば感謝してもらえる。それとも部下だから当たり前と思っていらっしゃるのかしら。
 サービスの原点を考える。
 ボランティアと仕事の境界線を見詰めてみる。

 競争社会において、誇り高く勝気な人が無報酬で他人のために奉仕する。素晴らしい仕事をすれば、報酬か名誉がほしい。
「ただでできるとは素晴らしいね。」
と言われたいならやはり名誉だ。
「普通以上に素晴らしい人格の持ち主ですね。」
との賛辞を求めるなら、やはりエゴが潜む。
 エゴを超えたエゴ、
 ドストエフスキーは「ボランティアは最大のエゴ」と言い切った。
 なけなしの金をはたいてまで、貧しい人たちに金銭を振舞うか。
貧者の一灯は、釈迦の説く美徳である。できる範囲で徳を施す。もしお金がなければ、微笑を。顔施(がんぜ)という心配りがある。心は心へ。心から心へ。
純粋な心があれば、ボランティアは最高だ。たとえよこしまなエゴが潜もうと、素敵な奉仕、思いやりだ。




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