希望

宮川俊朗

 何でもない平板な時間だが、楽しみの一つでも将来にあると、それまでの道程が輝いてくる。逆に苦痛を伴う障壁が、立ちはだかると時が滞り、くすんでくる。
 マンネリに陥った時は、一つでもときめく未来像を描こう。そこまでの砂漠のような乾燥した道も、岸壁に迫られた危うい道も輝く。時が輝き、そこまでの時、今の価値を創ることになる。ときめく未来とは、幸せの種、予感である。そうあれば幸せと感じるものを心に描く、そうならなくてもそうなるかもしれないという期待と賭け。直線に進む時間が、曲がり、平面を描き、上下にはねる立体を進む。あるいは後退しても、幸せの園、成功の栄冠へ行ける道程になる。
 時がダンスし、美しいメロディーを奏でる。たったひとつの可能性を描き、求めることで、人は前へ元気に明るく進める。時を創る。時が創ってくれる。

詩集
 好きな詩人の詩集が手元にある。図書館から借りてきたもので、返すべき期限がある。「早く読まないと」とは思うけれど、一日に一つと決めている。たくさん読むと、印象が薄れる。朝、詩を一作品読むと、その印象が一日中、心にあり、考えさせられる。濃いブランディを飲んだように、心に沁みる。詩人は月か週に一つぐらいしか、詠んでいないだろう。だったら私も一日に一つの詩と、禁欲的に決め、味わい深くする。何度か図書館に通えば、完読できる。

祭り
 故郷で祭りが、盛大に行われたと聞いた。毎年のことだとは思っているが、つい気になる。縁があり故郷を離れてしまう。志を果たしてから帰ろうと思いつつ、なかなか達成できないので、帰郷がずるずると遅れてしまう。
 それでも祭りは華やかで、笑顔の中、宴も盛大だと聞き、喜びつつ一抹の寂しさを覚える。自分がいなくても滞りなくできることから来る寂しさは、我がままである。未練は、未だ練れず、修養が足りないのだ。心が練れて、平気になれるのも普通ではないような気もする。事を成し遂げるべく、奮起せよという便りか。

伝え聞き
 一日目は我慢できた。ずっと故郷の祭りのことばかり気になった。表面は静にしていても、心はそればかりで仕事にならない。二日目は、知り合いに聞いた。「いつもと同じみたいだね」と関心がなさそうに見える。異郷の地が長くなれば、そうなるのか。
 ついに夜、故郷の友に電話をかけた。
「祭りは新しい趣向も入って、盛り上がったよ。新しいお客さまが増え、伝統の祭りが生き生きと催された。」と感想を語る。
 友は祭りの幹事である。温故知新、労多くして、功あり。もう幹事の中核である。
「それは良かったね」
「君も帰ってくれば良いのに。待っているよ。」
 来年こそは、事を成し遂げ、堂々と故郷の祭りに参加したい。久しぶりだから、恥ずかしながら友の下働きで、役に立てれば良いと思う。

力関係
 管理者Aと監督者Bが私の上にいる。二人とも自分にとっては、大事な上司だ。管理者Aが休めば、監督者Bはその日は自分にとって管理者になる。AとBは、必ずしも意見があわない。Aの意見が、仕事を進める上で、組織運営上ではBの発言内容ともなる。Bは常々我慢し、Aの意見の信奉者であるかのように発言し、行動する。しかしAが休めば、監督者Bは我を出す。日頃抑えられていたストレスと、微妙に違うニュアンスの意見が露わとなる。
 私はAと馬が合う分、Bとは合わない。Bは日頃からそのことを苦々しく思いつつ、波風を立てまいと辛抱している。その反動が、天下を取った日に顔を出す。私がAに良い分、Bから当たられる。その日だけBに尽くせば良いのだが、器用にはできない。モゾモゾしていると、嫌みの一つ二つが飛んでくる。合わせれば、明日はAが現れ、再び軌道修正しなければいけない。
 AよりもBを重んじるように、態度を改めれば済むのかもしれない。私がAとの良好な関係を維持しようとすることが、エゴなのか。矛盾は時間をかけ、柔らかく修正していきたい。状況に応じたフレクシビリティが、求められる。   

みかん
 冬の日にみかんを食べたが、皮を捨てるところがない。ちょうどゴミ出しの日で、ビニール袋は、台所に下がっていない。それより皮とはいえ、本当に捨てるのは勿体ない。樹木や草花の近くであれば、肥料になり、いつか花の一つになる。
 かばんにそっと詰め、通勤途上の公園にでも置こうかと思った。静かな道から池に出た。寒い池には、鴨や鷺などの野鳥がいっぱいだ。初老の方がパンを渡り鳥にあげている。鳥たちは、白い羽をバタバタさせながら、男の周りをくるくると円を描く。私はしばらく鳥たちの活発な光景を眺めていたが、釣られるようにかばんの中からみかんの皮を取り出した。
 駄目でもともと。鳥たちは、私の放り投げた皮をめがけて、弧を作り出した。1羽、2羽からついには十羽以上の元気な鳥たちが、細切れの皮を取りに来た。冬枯れで飢えているのか。いや群集心理で、餌の捕獲に参加するよう強いられているのか。
 おもしろいほど群がって来た。何もかも忘れ、童心に返る。烏が群れに入り、前や後ろの木にも新たに様子を伺っている。
私は恐ろしくなり、バタバタとみかんの皮を、池に投げ入れ、そそくさと立ち去った。もっと良いものを、せめてパンの切れ端でも持って来てあげたら良かったのに、歩きながら考えた。

落ち着きを取り戻すと、芥川龍之介の「蜜柑」を思い出した。娘が今から仕事に出ようとする時、送りに来てくれた弟たちへのお礼に電車の窓を開け、蜜柑をぱあと投げるという短編小説である。弟たちの労に報いるべく、また別れの挨拶にと黄色いみかんをばらまく。曇った灰色の空に、黄金色のみかんが飛び散る。一幅の絵である。憂鬱な時ほど輝きが欲しい。
私はその時の気持ちがわかったような気がして、嬉しくなった。
次はもっと良いものを持ってきてやるぞ。ちゃんと辛抱強く働かなければと、心に言い聞かせながら寒風の中、足を速めた。

旅情
芥川龍之介の作品は、鉄道に関するものが多い。先にあげた、「蜜柑」は筆者が横須賀線に乗り、同乗した女性が見送りに来た弟たちにみかんを投げる話である。歩きながら投げるのでは、格好がつかない。一瞬の車窓での出来事を取り上げたところに、切れ味がある。
「トロッコ」は、まさに車両そのものだ。鉄道の線を敷く作業で使うのが、トロッコだ。作業員が乗るだけでは当たり前だ。少年が乗り、冒険するところがおもしろい。
「お時儀」は、晩年の傑作だ。心を寄せる女性と目と目が会う。本当は言葉を交わしたいのだが、お辞儀をするだけである。それで心温まる場が、駅の寒いプラットホームだ。大正から昭和にかけて、鉄道は全国的に広がった。どこにでも行ける。しかしお金と暇がない。芥川龍之介は、市井の人として街の鉄道を描いた。電車に乗れば、人との触れ合い、小さなドラマが待っている。駅には、旅立つ人の思いが交錯する。長い道のりもある。鉄道や駅が作品の舞台となり、光彩を放つ。
飛行機はあっと言う間に飛び立ち、途中の行程も乏しい。鉄道には遠近、大小の旅情があり、芥川龍之介は美しくコンパクトにとらえた。好きな場面でもあったのだろう。

背景
同じ鉄道の場面でも年代に応じて、ニュアンスが変わる。
「蜜柑」では、隣の娘さんが電車の窓を開け、舞い入る寒風に嫌悪感を催したものの、みかんを投げる優しさに感動している。疲れた日常性の中で、ささやかな喜びを得る。
「トロッコ」では、少年が走り帰り、泣き叫ぶのをお母さんが抱っこしてくれる。感激は「トロッコ」の方が多いのだが、主人公は少年の日を懐かしさとともに教訓として思い出している。主人公は作家志望でありながら、校閲の仕事をしている。立派な仕事であるが、作家を第一と考え忘れられない。絶望に近いものを感じている。
 折り返しのトロッコは、人生の折り返しである。本当は20代、30代は、青年から壮年に向かう充実の時である。絶望なんてとんでもない。しかし芥川龍之介は、先がよく見えるだけに、物理的に数える年齢以上のものを感じ始めていたのではないだろうか。太宰治が口にした「晩年」が、トロッコの帰り道に待ち受けている。末期の目。天才ゆえに早々と抱く感慨でもある。「トロッコ」は、少年、少女と同時に大人に向けて書かれた心象小説である。




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