タクシードライバー

宮川俊朗

 昨年の十月から十一月にかけて、残業が続いたので、毎晩帰りはタクシーとなった。仕事は期限が迫っており、いくら頑張っても目処が立たない。十名から成るチームプロジェクトなので、私だけが先に帰るというわけにはいかない。
 十二時過ぎになれば、タクシーがビルの出入り口付近に停まっている。従って私が手を挙げる前に、後ドアは開く。タクシー業界は不景気の影響で競争が激しい。遠くで待つタクシーが、私の乗り込む様子を、羨ましげに眺めている。
 私は目を閉じて、五分でも十分でも眠りたいのだができない。というのも朝からずっとパソコンの画面相手に黙々と仕事をしてきたので、言葉を発したい衝動に駆られるからだ。
「夕食を食べた後、たった今まで仕事をして来たんですよ。」
「そりゃ、お疲れ様です。体を壊さんように気をつけてください。」
 運転士は安全運転に神経を集中しながら、ねぎらいの言葉を贈ってくれる。
「過労死にならないように、休養、特に睡眠は十分取られてくださいね。お風呂に入るのは、心身にとても良いのですよ。
 私たちも隔日に、朝八時から翌朝の五時までの長時間労働ですから、お客様の気持ちはよくわかります。」
と毎夜、どの運転士も同情とともに、自分が実践している健康法を添えてくれる。
 しかしその夜の運転士は、質問を重ねて来た。私はやはり目を瞑りたい気分になっており、質問には反発を覚えた。
「どんなお仕事をなさっているのですか。」
「社史の編纂で、再来月には発行しなければいけないのです。」
 もしここで、「どのような社史か」と畳み掛けて来た場合は、黙殺するか、
「あなたはしっかり安全運転に集中してください。」
とたしなめる腹づもりでいた。
 ところが二の矢はなく、間が空いた。時間にして二、三分のはずだが、たった二人の狭い空間では、とても長く感じられた。しかも話題が私の仕事に関わることだけに、ずっしりとした疲れとは別に、一通り話してしまいたくなる。
「社史の編纂は、基本方針が大事ですね。たくさんの史実を調べ、扱ううちに、興味本位で右往左往することになりかねなねません。新たな史実の発見で、内容の変更や修正をする場合でも、基本方針に照らし合わせて作業することが大切です、」
と生意気に捲くし立てた。
「貴重なお話を伺いました。」
 丁寧な答えに、私は調子に乗り、ほんの今まで行われた会議での内容を格好よく披露した。
「とても勉強になります。経営にも一脈通じるところがありますね。」
 正直、驚いた。恰も自信満々の四番打者が、初対面のピッチャーからいきなり胸元に剛速球を投げ込まれ、度肝を抜かれる思いだ。
「編纂が経営に通じるのでしょうね。」
 社史の編纂は経営の一環だから、経営方針に合致せねばならぬと説明するのは、もう蛇足のような気がした。
 タクシーは我が家まで半分の距離を残している。あとはどんな話を交わしていけば良いのだろうか。
 住宅街に入り、車の数が減ると
「私は二十年間、約三十名の社員を使って経営をやってきました。」
と時を噛み締めるように、語り始めた。
 頷きながら聞いていると、ご長男は医学部を卒業し、アメリカに四年間留学され、昨年の春から遠くの大学病院で勤務していること、更には奥様を今年の春なくされたことまで話を広げられた。
 運転士は恰幅がよく、青い制服を上等の背広のようにびしっと着こなしていらっしゃる。きっとほんの少し前まで、社長車の後部座席でゆったり座り、経営の構想を練られる日々だったにちがいない。私は客でありながら、社長車のお抱え運転士を務めているような緊張感を覚えた。
「息子の医学部でも、創立記念の百年史をつくり、我が家の床の間に飾っています。お客様がおっしゃるように、部数限定ですから何年か経つと、値打ちが上がるのかもしれませんね。
 ところで妻は、昨年の暮れ、五月までの余命半年と宣告されました。私は会社を知人に譲り、看病に当たることに決めました。妻は医者の宣告通り、春の盛りになくなりました。私は悲しみの三ヵ月後、タクシーに乗っているのですが、何もないですね。
 運転士は経営者と違って、資金繰りや営業で悩むことはありませんが、一日、仕事が終わればそれで終わり、家に帰っても独り、電気のスイッチを自分でつけなくっちゃ、真っ暗です。」
 尋ねたいことが、いろいろと頭に浮かぶ。
「息子は帰国後、北海道の大学病院で勤務医をやっており、『うちにおいでよ』と誘ってくれるのです。
 妻は病床の中で、『孫といっしょに住みたいね』としきりに言っていたので、妻への孝行と供養と思い、息子の家へ行こうかと考えているんです。」
「博多から北海道は遠いですよね。」
「でも行こうと思います。」
 私はタクシー運賃を払いながら、
「ありがとうございます。」
と大きな声で礼を言った。
「お客さんも、体にはくれぐれもお気をつけくださいね。」
 夜空には、たくさんの星が輝いている。あの星の向こうには、北海道が待っているのだろうか。
 家まで少し歩いた。門灯が点り、家族はもう眠っている。
「帰宅は何時になるかわからないから、先に寝ていていいよ。」
と伝えていた。
 朝食の準備には、早起きが要る。
 私は冷たい布団に横になりながら 
「あの運転士さんも幸せになってくれたら良いのになあ。長年、住み慣れた故郷を離れ、息子夫婦が居るというたったそれだけの地に、居を移すのは勇気が要るだろう。
 しかしあの方ならできる。長年、社長をやられた方だから、たったこれしきの決断ぐらいお茶の子さいさいだろう。」
と考えているうちに、穴に嵌ったように眠った。
 朝の光はまぶしく、朝食での会話はときめいた。いつもと同じメニューそして凡庸な会話のはずだが、昨夜の運転士さんの境遇を想うと、勿体ないほどありがたく、幸せな気がした。永遠から観れば、今の幸せは、短くはかないが故に、抱きしめていたい。そしてあの社長運転士さんも、もう一度、幸せをつかんで欲しい。日が昇る空を眺めながら祈った。


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