時は友(3)

宮川俊朗

 五 DNA
  友の罪を探る遥か前に、私も似たような悩みを抱えていた。
 先輩の助言により、「実務こそすべて」と仕事に情熱と神経を集中する。四十五歳を過ぎてからで、遅い転換であった。残影がつきまとう。文章を忘れたくて、絵画に興味を持とうとした時代だ。
 「どこかで見たような顔だな。」
と仕事の目を休めて眺める。
 島龍平は私の部下で、神経質が度を過ぎて仕事が裁けない。私が余りにこと細かに注意し、時には大声で叱るために、いよいよ萎縮しているのではないか。こう自責の念に囚われつつ、島くんがもっと能率を上げてもらわないと職場全体が困る。
 私は叱ったばかりの引きつった顔をそっと見る。反射光を放つ眼鏡の顔は、誰かに似ているな。しかしこの顔だったかと思えば思うほど、該当者は浮かんで来ない。もうきつく当たりなさんなという暗示かしらと惑いつつ、その週は暮れる。
 楽しみの週末はスケッチブック片手に、野山に出かける。絵を文化サークルで習っていた。二人の息子が、高校生になるのを狙い済ましたかのように、妻までが自由行動を主張する。
 スケッチ道具は文句を言わずに付いてくる。白い紙に自然の色彩が加わると、元気が湧く。誰にも秘密だが、日曜画家を自負し、いつか作品を世に出そうと思っていた。ゴーギャンだってスーラだって、若い頃は会社勤めの日曜画家だったではないか。
 夕食後、お気に入りの画集を取り出す。分厚い重みが両膝に快い。妻が静かに、ウィスキーを落とした紅茶を運んでくれる。画集を観れば心がなごむし、何と言っても教科書だ。
 特に青木繁が大好きだ。自由奔放を超えた放浪で、身を痛ためた
のが今更ながら残念だ。若き日の自画像は、度の強い眼鏡に陰鬱な
表情は鋭くロマンティックだ。名作「海の幸」を描くほんの数年前の作品だ。
 どこかで見た顔だなと思った瞬間、身の毛がよだった。まさかと必死で打ち消そうとしたが、島にそっくりだ。顔の輪郭や花の大きさなど細かく見れば違いはある。ところが陰鬱さにかけては、瓜二つである。いや島くんが苦労している分、皺が深い。しかもその刻みの一端を、私が強いているのかと思うと、居ても立ってもいられない気分に襲われた。
 島くんに負担をかけ、能率の悪さを責めるのは、恩師に鞭を当てるようなものだ。畏敬の肖像をけなすのは、恩師どころか、自分の心をさいなむのに等しい。
 その夜は殆ど眠れず、朝が待ち遠しかった。一刻も早く出勤し、今までの事を詫びたい。しかしいざ本人と顔を合わすと周囲の手前もあり、切り出す口実がない。いきなり詫びれば島くんは当惑するだろうし、謝れば済むものでもない。
 島くんにこれから何か起きれば全力で助け、当面は成長を見守りたい。約束を守るため、画集を見るのは控えよう。
 私がそう心に決めてから、島くんとは普通に話をし、一緒に仕事ができるようになった。体面を気にしつつ、己を確かめ這うように登っていく日々であった。
 職場の木下綾子は、「先輩は若いのか、晩年かわかりませんね。きっと両方持っていらっしゃるのでしょう。」
と大勢の飲み会で、隣席の際、コメントした。酔いが覚めそうだ。

 「彼は昔の彼ならず」ではないが、二十代の私は島に似ていた。もし彼をいたぶるなら、青年時代の私を苛むことだ。ガラスのような神経を持ちながら、みみずのように這うように生きていた。
 にかく神経質な時代であった。宝物を大事にする。それ以上に手放しきれない時があった。小説を読むのを止めようとして、勤めの帰り道に立ち寄りそうになる。仕事場は街のど真ん中にあるから、かわしてもかわしても本屋はある。三軒目には吸い込まれる。
 芥川龍之介、太宰治、ドストエフスキー、愛読書はこの三人で、文庫本の棚に寄り添っては、一人一冊、それも一ページと決め、三ページだけ立ち読みをする。
 自宅に帰れば同じ本があるが、勤め始めてからは、禁煙を宣言するように「小説は止めた」と両親や友人に宣言した。しかし帰り道にはふらふらと足が向き、手が出る。浮気である。奇妙な義侠心から立ち読みさせてもらう店において、雑誌類は必ず買った。
 そして三人の文庫本は、創作の年代順にきれいに並べた。本心はこっそり読むのが半分、きれいに並べたいのが半分である。題字が上下にひっくり返っている場合がある。敬愛する作家が逆さ吊りされているようで許せない。遊びで逆立ちをしていると思えば良いではないかと思い返すが、しっくりいかない。
 一度、惨状を見せつけられと、「今日もあの本屋でへんてこりんになっていないか」と心配になる。ただし三人の作家に留めている。「他の本を片付けるのは、本屋の店員さんの仕事だ」とこちらはきれいに割り切れる。第一、あれもこれも並び直していたら、万引きか不審者として怪しまれるのが落ちだ。
 三人の作家だけなら、せいぜい十冊ずつで、並べ損ないはその内、二、三冊だ。例えばポーカーの名人が、より役の多いカードへと切り直すように、文庫の一冊を持ってきてはきちんと順序よく返す。さりげなくスマートに、しゃっしゃとだ。
 毎日とは行かずとも、この偏奇行が、半年は続いた。
 同級生の山本宗治は、私の心がわかり苦悩を見守り、続けていた。
「癖を直すより、もう一度しっかり読んだ方が前に進めるよ。」
との助言を受け、局面を展開できた。山本くんは友以上に恩人である。私は恩をもらうばかりだし、年に一度の会話が楽しみだ。

 ところで、この文庫列の光景を長男俊輔のアパート部屋で見た。五十歳の時だ。どうして選りによって、私と同じ三人の作家なのだろう?
 ただし周りには、現代の流行作家の作品が、ぎっしり取り囲む。文庫本がてのひらサイズなのに比べ、ハードカバーのきらびやかな本はでっかく威圧感さえ漂う。さながら木造の平屋家屋が、高層マンションに光も風も奪われて、細々と建っているかのようだ。
 私だってハードカバーのベストセラー本に触れたことはある。しかし並んだ文字から、想像力は余り湧かない。まぶしさと羨ましさが先に立ち、眼前の本との一体感がなかなか生まれない。
 ところが、俊輔部屋は、おしゃれでうす緑のカーテンとともにハードカバー本も文庫本もしっくり収まっている。新旧あいまって温故知新をインテリア上で実現しているかのようだ。
 新時代、そして世代が代わる。もしこの部屋が俊輔のでなければ、さっと立ち退いていただろう。あるいは、もしこの部屋に一週間篭って仕事をすることになれば、愛読の文庫本を目線の高さに上げ直し、ハードカバーの方は、視線の届かぬ奥に仕舞うだろう。
 私はこう考えている間、大小の本に釘付けになっている。一皮剥ければ、大の方も新しい旅先のように、わくわくするほど好きになるだろう。興味と好奇心は貪欲だ。変転、ローリングしなければ、くすんで苔だらけになる。と同時に達磨さんのようにじっと座って観ていると、孤島のような文庫本は、貴重な宝に見えウインクした。

 長男が二年後に就職して借りたマンションには、ハードカバーばかりが山積みされていた。遭難から助け上げられた漁師たちを看板で日干しするように、文庫本は山の脇にちょこんと乗っている。読んでいるのだろうか。
 いち早く泥沼から脱出できたのが嬉しく、あっさり宝の山を卒業したのが寂しかった。私はなんだか取り残された気がした。と同時に私自身が青いものをまだ大切に持っているのが誇りに思えた。

六 ドア 
 ほんの少し向こうに、逆のものが待つ。壁で仕切られた向こうに、幸せの逆、あるいは絶望の反対、豊かさの対極が広がる。
「行ってらっしゃい。」
と笑顔のの妻に送られながら、ドアを開けるのがためらわれる。思い切って開ければ、忠犬が待っている。鋭利な鉄扉が半円形を描いて触れない場所に居て、パタンという音を確かめるや、尻尾を振って寄り添う。
 ラッキーは満十五歳で、耳と目が遠くなってきた。人間で言えば、後期高齢者に属するであろうが、ドーベルマンを先祖に持つミニチュアピンシャーで勘が鋭い。靴を履く音で、ドア付近の安全地帯に待機する。
 私は見送らせるために、クッキーを二個用意した。左手にカバン、右手にクッキーだ。というのも妻は一月前の三月まで毎日、大学病院に働きに出た。朝八時に出勤するので、私は独り身支度をする。
 犬だって散歩に連れて行ってもらえるわけではないので、小屋に寝そべっていた。わびしくて、クッキーを一つ投げると、愛想良く飛び出す。三日続けると、「お座り」の姿勢で待ち始めた。
 クッキーは家族みんなの好物で、高品質だ。一種の餌付けであり、パブロフの原理通り、犬ばかりか人間である私まで習慣化した。以来十二年、朝ばかりか、帰りの靴音にも歓声を上げて待ち受ける。
 ところが妻が専業主婦になってからは
「今日は帰りが早い?お付き合いで飲みすぎないようにね。行ってらっしゃい。」という新婚気分の会話の後、ドアを開く。
 ラッキーは十年一日の如く、ドアの向こうに待っている。背広の内ポケットにクッキーを忍ばせ与えた。喜びより罪悪感が訪れる。
 ラッキーは心臓に不整脈があり
「カロリーの高い食べ物はやらぬように」と医者から注意され、家族は心を鬼にして実行している最中だ。
 私は妻の笑顔に対しても、すぐ後で面従腹背の行為だ。三日後にクッキーを止めた。
 私たち夫婦は、親戚の間では、相思相愛のおしどり夫婦で通っている。しかしふとしたことで、綾子を思うと眠れない夜もある。寝言で喋りはしないかと気になる夜は特にだ。
 ドアは重かった。忠犬はあらん限りの力と芸で、尻尾を振っている。私は見て見ぬ振りをして、さっさ、さっさと歩く。捨てられたような思いがしたのだろう。その三日後から、ねそべったままだ。私は小屋に迂回し、頭を撫ぜてやる。我らが犬はこちらを向くが、「ふん、たったそれだけ」という顔をする。
 夜の散歩にクッキーを携えるか、ハムレットになり思案する。今宵は三日月、満月までに結論を出したい。

 ところで次男の健治は文学には興味が薄く、数字や計算式によりノートは埋められている。芥川龍之介と言えば、「蜘蛛の糸」が一冊あるのみで、恋をした時に「ロミオとジュリエット」を買い求めた。彼女との会話で、「読んだこと」が必要になったのか、「口説き落とすには」と友から勧められたのであろう。それに私たちに似て、旅が好きで、ぷいと出ては私たちを心配させる。
 それにストレートで素朴な性格は、私と、それも壮年からの私とよく似ている。黙して着々と進める。この弟から兄への呼びかけがあり、事は進められた。
「八月一日から三日までの香港旅行をご招待!」
 誕生日のお祝い会で、二人揃ってチケットを渡してくれた。
 期日と言い、「どこへ行きたいか」は、妻と子供たちで綿密かつ入念な打ち合わされたにちがいない。知らないのは私だけである。
「記念すべきゴールだから、いつもよく行く温泉より、ぴいんと羽を伸ばして海外へ。」
 ひそひそと熱い議論が聞こえて来るようだ。私は海外へ何度か赴いたが、妻は初めてだ。子供たちは何でも知っている。覚えている。
 私は舞台裏のからくりに思いを馳せながら、チケットをしげしげ眺め、涙がこぼれそうになった。人生捨てたもんじゃない。捨てなかったから嬉しいチケットが渡される。
 「同じ職場で再雇用します。」と通知が届いたのは、翌日である。
花束の贈呈は、綾子がしてくれた。誰が彼女を選考したのかを考えると赤面する思いだ。

 時は友だち、家族と呼ぶには照れてしまう。家族に友だちを含めようとするのは、五人乗りの車にあと二人加えるようで窮屈だ。
 時は私たちを静かに見守り、いざという時は一気呵成に友だちを連れてくる。喜怒哀楽に、運鈍根といずれも大切な友だちだ。細いマイクロ線に乗り、電光石火で現れる。いや大空いっぱいのボリュームを筒状に携え、時はやってくる。
 時は欺かない。過去をストレートに反映し、希望の未来へと誘う。果てしないと見える地球号だって、時にかかったらピンポン球みたいに自由自在に扱う。
 時は何でも知っている。まるで世阿弥の「秘すれば花」を地でいくように、静かに微笑み、見守ってくれる。時の正体を究めんとして、それが心であることを知るだろう。時は私の心を映し、清め導いてくれる。花咲く希望へ、もしも気持をぷっつんさせたら地獄へとまっさかさまに落とす。時は透明なカーペットになり、可能性の友だちをたくさん連れてくる。




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